グラーツ‐オーストリアの古都

グラーツは日本ではあまり知られていませんが、オーストリアで第二の都市。え、一番はどこかって? もちろんウィーンですよ。ウィーンは人口180万人くらいの都市ですが、グラーツは人口25万人くらいの都市です。それでも日本にもっと名前が知られているザルツブルクやリンツ、あるいはインスブルックより大きな都会なのです。ヨーロッパの街には、このくらいの大きさで、珠玉の街といえる町が数多く存在します。
 実は私のヨーロッパとの出会いはグラーツにありました。1978年グラーツで開かれた少数粒子系物理学(ややこしいですがガマンしてネ。)の国際会議に、終えたばかりの博士論文の研究をもって、参加することができたのです。そして生まれて初めての、海外での研究発表を慣れない英語で行いました。そして私の研究は幸いにも注目を浴び、会議後に出版された会議の講演録の最初のページに、私の研究が言及され、このような研究も始まったと評価されました。それが私の三十代の海外での研究生活につながるのです。
 それが私の世界との出会いでした。でもそれを除いても、グラーツは魅力的な町です。少しその魅力をお聞きください。

町の中心部

ヘレンガッセ

ヘレンガッセ。トランジットモールになっており、自動車は排除。LRTが人々を運ぶ。ベビーカーも町の一部です。

町の中心はハウプトプラッツ(メイン広場)とレオポルトプラッツを結ぶヘレンガッセという道です。日本語に直すと紳士たちの小径となります。
 紳士淑女たちの小径は、まさに男女とも人が主役の道となっています。自動車に荒らされてはいないのです。これは1978年当時からそうでした。今ではトランジットモールと呼ばれ、日本でも導入が試されている町もありますが、すでにこの紳士たちの小径は、トランジットモールでした。自動車が中心街から排除され、路面電車がそこへ人々を運んでいくことはグラーツでは当たり前だったのです。

ハウプトプラッツ

ハウプトプラッツを丘の時計台より見る

ハウプトプラッツ(中央広場)は、グラーツの文字通り中心です。またヘレンガッセの一方の出発点でもあります。上の図は近くの小高い丘からハウプトプラッツを見下ろす景色ですが、広場の前にあるのが市庁舎です。市庁舎の左側にヘレンガッセが見えます。ヘレンガッセ沿いに市庁舎、州庁舎、武器庫博物館などが並び、またアールヌーボーの壁を持つ建物など見所がいっぱい。おしゃれなブティックなどが並び、そこここに路地の入り口があり、路地をたどると中世のママだろうかという一角が次々と。ハウプトプラッツの手前に見える一角から比較的広い路地に入ることが出来ますが、そこはシュポルガッセという小径。そこにはホーフベッカライというパン屋さんも。写真で見るとおり創業は1569です。

シュポーガッセのパン屋さん。創業1569年

17世紀初頭のグラーツー歴史的な舞台

すぐ上に紹介したパン屋さんは16世紀半ばに創業したのですから、それも双頭の鷲の紋章が建物に飾ってあるのですから、17世紀にグラーツで活躍した歴史に残る人々も食べていたに違いありません。17世紀初頭のグラーツを紹介しましょう。

ヨハネス・ケプラー

17世紀がちょうど始まった頃、一人の若い高校数学教師が、グラーツに住んでいました。彼はある「重大問題」に取り組んでいました。その問題とは、「何故惑星の数は六個なのだろう?」という問いでした。今から考えると馬鹿げた発想です。何故なら現代では惑星の数は八個だと解っているのですから。

彼はドイツ・テュービンゲン大学のエヴァンゲリシェス・シュティフト、とりあえず新教系神学部と訳しておきますが、そこの大学生でした。テュービンゲン大学のこのシュティフトは名門であり、卒業生に例えばヘーゲルがいます。またこの大学に進学するため、猛勉強した結果、自殺未遂をするほど消耗し、高校を退学した学生にヘルマンヘッセがいます。

惑星の数は何故六個だろうと悩む彼を理解するために、上記エピソードが必要なのです。彼の名はヨハネス・ケプラー。現在も高校で皆が習うケプラーの法則の発見者です。惑星あるいは太陽系の天体はケプラーの法則に従いますし、人工衛星もケプラーの法則に従って運動しますから、ケプラーの法則の理解は、宇宙時代である現代では、欠くことが出来ないものなのです。

ヨハネス・ケプラーは新教系の神学者になるために大学に進みます。彼の家庭は貧しかったので、新教系神父になるためのエリートコースを、高校大学を通じて、食費などあらゆる生活費を供給される神学生として過ごすことを余儀なくされたのです。そしてテュービンゲン大学で、運命的な出会いをします。メストリン教授から、コペルニクス学説を紹介されるのです。

太陽中心説と地球中心説(ややこしいと思えば飛ばし読んで構いません、別ページでもっと詳しく解りやすく説明します)

コペルニクス説とそれまでのいわゆる天動説の違いは、宇宙の中心は何かということです。コペルニクスは太陽を宇宙の中心に置きました。一方それまでの考えでは、宇宙の中心は地球でした。地球が宇宙の中心であり、天球に張り付いた諸天体が、天球の回転に伴って空を移動するというのがそれまでの考えでした。天球は複数個あり、宇宙の端にある構成が張り付いた天球の中で、惑星の天球がそれぞれの回転をすると考えられていました。それぞれの異なる動きをする天体ー惑星のことーは、日・月・火・水・木・金・土です。これに曜を附けると一週間になりますが、日を太陽と読み替え、火以降に星を附けると・・、そう空を動き回る天体となりますね。これを昔は惑星と言いました。惑星の数は七個で、週の曜日の数に合っていました。そして日曜を休日にする習慣は、創世記で神様がすべてのものを想像した後、七日目にお休みになったことと一致しますから、惑星が七個であるのは不思議とは思われなかったのです。しかしコペルニクス学説では惑星は水・金・地・火・木・土と六個になってしまいます。

ケプラーはコペルニクス学説の魅力に取り憑かれました。しかしそうすると何故惑星の数が六個であるのか考えなければならなくなりました。

ケプラーの最初の栄光は、追放と真の成功への出発点だった

ケプラーで長くなりました。改めてケプラーの記事を投稿しますので、簡単に済ませておきます。とにかくケプラーは一時グラーツに住んでおり、グラーツには彼が教えていた学校跡と、彼の住居跡が残っています。それもどちらも中心街近くに。住居跡はケプラーケラーという酒場になっています。

何とケプラーは惑星の数が六個である数学的な理由を見つけ出します。そしてそれを出版します。それはコペルニクス説を取り入れた宇宙模型でした。その書物は一部の人に大変共感を呼びました。ガリレオすら、今見ればおかしなこの宇宙模型に賛辞を寄せています。だがケプラーがグラーツで幸せな気分に浸って居たとしても、それはすぐおこる彼の悲劇で打ち消され、その悲劇は彼に終生つきまとうのでした。その原因は、やはりグラーツに住んでいた、同時代の有名人によって引き起こされます。

皇帝フェルディナント二世

上記パン屋さんの玄関の上に飾ってある双頭の鷲。これは名門ハプスブルク家を意味します。つまりこのパン屋さんはハプスブルク御用達のパン屋さんだったのです。17世紀初頭、グラーツの領主はハプスブルクの御曹司フェルディナントでした。彼は後に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント二世となる人です。そして17世紀初頭の一大悲劇三十年戦争は、このフェルディナント二世が一方の主人公でした。

フェルディナント二世の死後、やっと終戦に持ち込まれた三十年戦争の、終焉の為に成立したのがウェストファリア条約で、現代に到る国際条約の始まりとされています。17世紀初頭は、様々な意味で近代ヨーロッパが成立した時期であり、グラーツはその重要な舞台の一つでした。

皇帝になる前のフェルディナントは、グラーツを含む領国シュタイアマルクの領主でした。熱心なカトリック派だったフェルディナントは、自分の領土から新教の公務員を追放する決断をします。そこで新教派の高校教師だったケプラーも追放されました。

グラーツには16世紀に創設されたグラーツ大学(カール・フランツェンス大学)が今でも名門大学としてありますが、これはカトリックの大学であり、ケプラーがいた新教の高校とは違います。ややこしいですね。

三十年戦争の終結を待たずに死んだフェルディナントは、グラーツの地に妃と共に眠っています。彼の墓所もグラーツ中心部にあり、マウソレウムと呼ばれています。建物は教会と変わらず、内部も華麗で荘厳な装飾に満ちています。天上の写真を添付しますから見て下さい。円形の特に高くなっているところが見えるでしょう。その真下にフェルディナントと妃が地下の床の上に眠っており、上から見ることが出来ます。見ると二人の棺が並んで置かれ、棺の上には死者を模倣した人形が並んで眠っている姿を示しています。日本人の感覚としては慣れないと異様な感がします。

フェルディナントが眠るマウソリウムの天井画

郊外一のお勧め シュロス・エッゲンベルク

フェルディナント二世とエッゲンベルク

皇帝フェルディナント二世には、腹心の大臣がいました。ちょうど同じ時期のフランス国王ルイ13世に腹心の大臣リシュリューがいたように。子供の頃三銃士を読まれた方は、三銃士に常に敵対する国王の腹心であり、王妃アンヌ・ドートリッシュに常に敵対する憎き敵役リシュリュー枢機卿をご記憶でしょう。リシュリューは実際にルイ13世の腹心として、歴史上非常に重要な役割をした人です。

リシュリューは枢機卿ですからカトリックの大物司教です。ローマ教皇を選出する選挙権を持っています。ところがカトリックとプロテスタントの戦争と思われがちな三十年戦争で、カトリックであるフェルディナントに敵対し、プロテスタントであるスェーデン王のグスタフ・アドルフと連合を組みます。

フェルディナントの腹心であるエッゲンベルクは最初プロテスタントでした。テュービンゲン大学のエヴァンゲリッシェス・シュティフトで学んだそうです。覚えていますか? この大学はケプラーも学んだプロテスタント大学なのです。エッゲンベルクがこのシュティフトを卒業したことは、シュロス・エッゲンベルクを訪れたとき、英語で案内を請うたところ、幸い参加は私一人で(ドイツ語のツァーは大流行でしたが)、オーストリア美人の案内を只一人で受けることが出来、これ幸いとケプラーなどを混ぜながら私の知識を増やすために、色んな質問を独り占めにしたとき、聞くことが出来た情報です。

シュロス・エッゲンベルク

このように偉い人達の間では、旧教から新教へ、また其の逆へと言う流れは、ごく普通にあったのです。そのエッゲンベルクが自分のために建てた宮殿(シュロス)がシュロス・エッゲンベルクです。

シュロス・エッゲンベルク

このシュロスのコンセプトは宇宙です。ケプラーが最初にグラーツで書いた本の題名が宇宙の神秘。何か呼応しているようですが、案外このころ政情不安定な中で宇宙に対する好奇心が、皆の共通の感覚だったのかも知れません。シュロスエッゲンベルクは宇宙をコンセプトに、四つの門(四季)、十二の塔、365の窓があり、その建物の中に様々なテーマの部屋があります。その中で一番壮大な部屋の名が「惑星の間」。そしてその中には七人のギリシャ神話の神が描かれており、それは日月火水木金土と曜日の数と合致しています。

中国の間と大阪城屏風

数あるシュロス・エッゲンベルクの部屋の中に、中国の間と名付けられた部屋があります。私も何度も訪れたことがあるのですが、あまり時間をかけてこの部屋を見たことがありませんでした。その中国の間で、最近素晴らしい発見がありました。なんとその中の美術品の一つが江戸時代初期に書かれた大阪城と大阪の町の屏風だったのです。
オーストリア観光局の大阪城屏風の紹介はこちら。

何とも不思議な巡り合わせが、グラーツと関西にはあります。グラーツの町は京都に似ても居ます。アルプスから流れる水は鴨川を思わせ、川の畔の小高い丘は吉田山を思い出させます。