衆院三補選の結果を考える

国民は東京にNoを突きつけている

 2024年春の衆院三補選は意外な結果となった。全国民が日本の危機を痛切に感じている。三補選の結果が日本の危機を表したのではない。全国民が日本の危機を感じているから、その結果が三補選に表れたのだ。因果を間違って考えてはならない。そしてその危機のもとを考えると、東京に突き当たる。国民は今、一極集中で肥大した、経済停滞を生むだけの東京にNoを突きつけていることに思い当たる。
 全国民が今不安を抱えている。それも不思議ではない。二十一世紀になって碌なことが起きていない。首都東京をも襲った東日本大震災、その結果の福島原発事故。二十一世紀初頭にはまだそれほど認識されていなかったがすでに始まっていた、失われた30年に至る日本経済の大失速。人口減少、少子化問題。そして各地で相次ぐ地震。
 そして何よりも、二十一世紀に入って経済失速の実感の中で引き続く危機が常識となった時代しか知らぬ人が大人になっており、またなりつつある。バブル以前の「希望ある時代」を経験した人との差は、疑いようもなく大きい。
 更にはここ数年続いた世界的な出来事も加えたニュースが慌ただしい。世界に衝撃を与えたコロナ渦・ウクライナ戦争。二十世紀日本には、世界のニュースは他国の出来事だと、身近に考えることをしなかった世代も存在した。それも島国日本では当然ではある。だが世界の出来事を気にしないで良い感覚を、否応なしにここ数年の出来事・特にコロナ渦は否定してしまった。間違いなくコロナ渦前後で、日本人の感覚は変わってしまった。
 そしてコロナ渦が明けても日本の経済失速は変わりなく、世紀末にあれほど誇ったGDPも、ドイツにあっさりと追い抜かれてしまった。希望の時代を生きた大人達の誰も、その理由を探そうともしない。そしてそれ以上に国民を苦しめているのは、物価上昇、円安。20世紀以来の悪習で、日本はエネルギーをほとんど外国頼み。また食料さえも熱量ベースで自給率は半分にも満たない。食料価格がまたエネルギー価格が、単なる為替相場で上下するため、円安が長期的に良いはずがないが、それを皆が無視してきた。むしろ産業界は円安を主導してきた。国民が国家滅亡に至るやも知れぬ危機を肌で感じるのはむしろ当然であろう。
 これから大切になるのは、日本の伝統的文化とその思考法であると筆者は信ずる。それをもとに衆院三補選を考えると、次なる時代が見えてくると考えている。その為の思考法を、哲学の道の名前を通じて図らずも多くの日本人が間接的に知っている西田幾多郎に問うてみたい。間接的にというのは、哲学の道の名は知っていても、西田幾多郎の名を聞いたことがある人はほとんどないと思えるからだ。
 哲学の道は、京都帝国大学文学部教授であった西田が、好んで散歩をし思索に耽った場所であるが故に、現在哲学の道と呼ばれている。現在の哲学の道は、世界中の人々が好んで散歩する道となっている。特にヨーロッパ系の人が多いと感じる。現代の哲学の道が図らずも、日本的思考力が世界の人々を引きつける時代が来たと教えてくれているのではないか。諸外国からの人々が、西田と同じように哲学の道の散歩を好んでいるのだから。
 西田幾多郎の主著善の研究は、彼の思考の原点ともいえる純粋経験を定義する、次のような出だしで始まっている。
 ”経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を捨てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態を言うのである。”(岩波文庫「善の研究 第一編第一章 純粋経験」の出だしより)
 西田特有のわかりにくい文章ではあるが、なんとなく「感じる」ものがある文章ではないだろうか? 今の人に解るようにいうと、考えるという作業を行う前にいわば「事実に従って知る」のが純粋経験であり、西田幾多郎はその純粋経験を出発点として、彼の哲学を始めると宣言しているのだ。
 自己の細工を捨てて、事実に従って知ることが、純粋経験だという。
 これを近代哲学の創始者デカルトの主著方法叙説の出だしと比較してみよう。次の文章である。
 ”良識はこの世で最も公平にに配分されているものである”
 この言葉をもとに、彼自身にも与えられている良識を使って、様々なことを片端から疑い、そして彼は気づくのである。我思う、故に我ありと。
 デカルトはすべての知識を疑ってみた。その結果としてデカルトの出発点を見つける。「このように考えている自分が存在することは疑うことが出来ない事実である」と。
 デカルトと同じように西田も己が出発点を考え抜いた。その結果「思考を始める前の純粋経験」が出発点にあると考えたのである。西田は哲学の道を歩くことによって、自己の純粋経験を磨き、そして自己の純粋経験を常に探し出していたのではないだろうか?
 二人の知の巨人には相通じるものがある。それは余計な知をそぎ取って始めて、真実に迫ることが出来るという認識である。デカルトの方法叙説を読むと、彼があらゆることを疑ったことが記されている。一方西田は簡潔に、「全く自己の細工を捨てて、事実に従って知る」と記述する。余計なものはそぎ落とすというのが、日本伝統文化の神髄とも言えるが、西田はその伝統に従って簡潔に彼の哲学の原点を書き出すことが出来た。
 私という個人は、今現在に対してかつての重要な危機と比すべき危機であると感じている。世界的に見ても、プーチンや習近平の台頭、エネルギー危機、気候変動。すべて西欧近代の限界を示しているかに見える。日本においては少子化問題、地域格差、政治の混乱。すべて根本から変えていかなければならない時代ではないだろうか。
 時代を変えていくためには、東西の知の巨人に習って、不必要なものを疑い、そぎ落とすことから始めなければならない。西田に習って雑念を去り「純粋経験」に根ざした思考を進める必要があると思われる。危機においては、それまでにあった常識を当てはめても、危機を克服できない。今ある常識を疑ってかかる必要がある。
 この小文では西田から言葉を借りて「純粋経験」という言葉を使わせてもらう。その解釈は違うと哲学者達に怒られるかも知れないが。ここで使う「純粋経験」という言葉は、危機の時代を乗り越えるために、世間の雑音を取り除いた、庶民全体に共通すると思われる、まだ意識しないけれども感覚的に、事実に従って知っていることを指す。

三補選は、全国民の純粋経験からの判断である

地方を代表した島根

 保守王国島根においてさえ、自民が負けて立民が勝った。革新陣営は勢いづき、心ある自民支持者にはショックである事態だろう。わざわざ「心ある」と書いた理由は、東京に巣くう自民の多くの権力者たちには、まず解らない事態であるだろうからだ。
 保守王国島根が代表する地方の庶民は、現在の状況を純粋経験で危機だと判断し、その結果自民候補が敗れたのだ。島根の自民敗北はそのように捉えないと未来につなぐ思考は出来ない。
 危機において、日本の庶民は純粋経験でその危機を察知する。幕末を考えるが良い。アジアの各国が西欧の植民地に貶められる中で、危機を感じた志士たちを庶民達は応援した。太平洋戦争を考えるが良い。多くは無能だった昭和初期の政治家たちが始めた戦争に、日本の危機を理屈ではなく純粋経験で察知して、自己を犠牲にし特攻に散った若者達、またそれを送り出した日本の庶民たちを考えるが良い。いやそれらの事実は日本人の純粋経験であるだろう。志士たちが活動しまた殺害された現場が、京都を始めとする日本各地に残り、また特攻で散った若者達の話は、自己の経験を超えて否応なしに、日本人にそれこそ純粋経験として共通して残っているのだから。また近代西欧文化の結果として、一個の人の存在が、一秒の万分の一いや億分の一の恐るべき短時間で、あっと言う間もなく、石壁に投影された影に過ぎなくなったとの純粋経験を持つ、「被爆体験国日本」なのだから。
 現代の日本の危機の背景には世界の危機がある。太平洋戦争時の日本の危機には、日本が対立した西欧の危機があった。西欧文化が生んだ異端児ヒトラーに対し、西欧主流派の欧米各国が世界の危機にいわば立ち向かい、そして西欧近代の完成として勝利をつかんだのである。
 幕末も太平洋戦争も日本の危機であった。
 現在また我々は危機に直面している。特に東京圏を離れて見ると、それを純粋経験で感じる。そう感じたから私は現代日本で常識と考えられることを、デカルトに習って疑ってきた。四百年前の知の巨人が考えたことは、時代が進んだ現代の知の平凡者でも模倣することは出来るであろう。さもなければ、知を人の特性として考えた人類の進歩はない。
 現代の日本の危機の背景にはさらに大きな世界の危機がある。17世紀以来続いた西欧近代が行き詰まりを迎えている。西欧近代は「人類の進歩」を生んだが、その一方で資本の論理で、世界中に植民地を造った。原爆を造った。世界を支配する文化として、自らを確立しようとした。その試みは、西欧文化の亜流を継ぐプーチンに受け継がれている。プーチンは己が文化圏を勝手に想定し、それを支配するのが当然と思っている。
 そしてプーチンは西欧近代主流からは想像も出来ないことに、世界の破滅をも容認しようとしている。核戦争は人類を滅ぼしかねない。冷戦の終結後、いったん去ったと思われた危機が、また現実味を帯びてきた。また一方産業革命以来大量消費を続けてきた化石燃料が、疑いようもなく終焉を迎えようとしているが、人類はそれに対処すべき道を見いだしていない。特に日本の迷走は目を覆うものがある。気候変動で明らかに日本の四季も変動している。脱炭素と軽々しく言うが、脱炭素と言っている張本人たちが、脱炭素の意味を全く理解していないことを、庶民は「純粋経験」で感じている。アンタハン、ソレ自分で納得して言ウテンノ? ちょっと関西弁で問うてみよう。ちょっとあなたが子供時代使った方言で問うてみよう。アンタクサ、ホントにワカットトネ。
 失われた30年で、実際に多大な被害を受けているのは地方庶民である。地方には金もない。流出して人口もない。東京で地方の為に活躍してくれるはずの、おらが町の自民党政治家は、裏金に紛れて何をやっているかさえ解らない。庶民の危機感は実感ー純粋経験ーとして存在し、小手先の技法で解決できる事柄ではないのだ。

東京の庶民も純粋経験から何かを感じている

 本来都会的な立民が、東京で勝利するのは驚きではない。しかし現都知事が押す候補が、予想外に五位でしかなかったことは皆が驚いただろう。
 選挙に強いはずの現都知事が、まるで自分の選挙であるかのごとく応援をしたというのに、第五位に終わったという。東京で生活する政治評論家たちも、どう考えて良いのか混乱しているのではないだろうか? 多くの評論家が、東京目線としか言いようのない、的外れな論評をしているのが、地方から見るとよくわかる。
 でも東京の庶民達も純粋経験として、嘘で固められた都知事の本姓に気づき始めたのだろう。何しろ自分のデビューの言葉「カイロ大学を一番で卒業した」は、自分でも認めているように嘘なのだから。良い成績だと教授に言われたからと言い直しているが、一番でなければ無名の若者に人々は乗ってこない。一人の無名な若い女性が受けるには「一番」と言わなければならない。そのはったりがよく見ると彼女の本姓を表している。そして気がつけば、東京の現状を表している。
 地方の人々すべてが純粋経験している日本経済の停滞は、東京都民には実感しにくいだろう。コロナが開けてすぐさま、四谷再開発などの話が希望として飛び交っているのだから。しかし「再開発」という言葉が当たり前のように語られ始めたのは、バブル崩壊後であることを指摘しなければならない。再開発は偽物の希望にしか過ぎない。バブル時に売買された東京の土地に、再開発と称してビルが建ち並び始めたのは、バブル崩壊後の90年代に入ってからである。嘘と思うなら個々の高層ビルの竣工年を調べると良い。
 再開発の流行が始まると同時に日本は失われた時代に入った。それからすでに30年以上経った。東京の再開発で地方は衰退する。東京一極集中が失われた30年を創り出した可能性を否応なしに考えなくてはならない。

日本の危機の源としての東京一極集中

 三補選の決定的敗北を経てもなお、岸田さんの無感覚ぶりは目を覆いたくなる。
 多くの世襲議員たちの質の悪さは誰の目にも明らかだし、単純に「純粋経験」から反発している人も多いだろうが、純粋経験の後はその経験を論理化する作業が必要となる。説得力がある論理化は純粋経験に基づいてこそ得られるだろう。だから西田幾多郎は純粋経験を思考の出発点に置いたのだろう。
 三補選の敗北後すぐ外遊した岸田さんは外遊先で、「課題を一つずつ解決してまいります。」と言ったと報道された。彼が繰り返し発する台詞である。敗北後にもこれしか言えない、「広島出身」の岸田氏のこの言葉に、彼の政治家としての決定的な能力なさを私は見る。
 岸田さんは東大を受験し、何度か落ちたという。さもありなん。大学は本来の性格上そのような学生を求めない。
 課題を一つずつ解決できる能力があっても、大学入試でセンスある難問は解けない。何故ならセンスある難問は、本質を突くか、または複数の課題を巧妙に入り組ませるか、どちらかであることが多い。一つ一つの課題を解いていくと言えば、優等生を好む高校の先生には好まれるかも知れないが、また多人数入学を前提とする大学の入試は偶然突破できるかも知れないが、そのような態度で受験を繰り返しても、そのたびに不合格になるだけだろう。大学は一つ一つの問題を解くためにあるのではない。アホな専門家の大量生産の場ではないのである。
 明らかに政治は複合問題である。優れた政治家は従って優れた哲学(複合的な思考力)を本質的なところで持っていなければならぬ。そして今こそ課題を一つずつではなく、日本の進むべき道を考え、そしてその方向に人々を納得させて、日本をリードすべき時である。馬鹿な優等生は政治から去ってもらわなければならない。選挙民は優等生面をした馬鹿者を、落第じゃなかった、落選させるべきである。

巨大都市圏東京を抱え、脱炭素はできない

 東京一極集中に未来はない。それは単に巨大都市圏東京を、再生可能エネルギーで支えることは出来ないからの帰結である。再生可能エネルギーは、そのエネルギー源を太陽に頼る。太陽は地球全体に、莫大な量のエネルギーを送り続けるが、その性質上集中はしない。人口が多いからと言って、特別扱いをして、余計にエネルギーを与えてはくれない。大自然はそういうことをしない。再生可能エネルギーは自然のエネルギーなのである。集中は集中を支えるために、それだけでエネルギーを爆食いすることはエントロピー増大則が教えてくれることだ。集中はそれだけでエネルギーを必要とする。国家の隆盛期には勢いを付けるために集中もあり得るが、適度な分散こそ、エネルギーを無駄にしない社会構造なのである。
 莫大な再生可能エネルギーを運んでくるのは、それだけでもたいそうなエネルギーを消費する。20世紀の日本で、通常の人々はそんなことを考えてもみなかった。エネルギーはどこかから買ってくれば良い、そう考えてきた。しかし皮肉なことに、日本経済は停滞し、よそからつまり外国からエネルギーを買ってくるのは、日本にとって非常に難しくなる。特に円安になってもらうと困る。外国産のエネルギーや食料を買いやすくする円高でないと輸入大国日本は持たないのだ。
 一方輸出大国日本と考えたから、これまで日本人は円安がいいと思ってきた。ところで何を輸入するの? 何を輸出してるの? 自動車だって? そうだとすれば自動車が日本経済を牽引する理由って根本的に何なの? 輸入と輸出では、何が一番大きいの? そのバランスで日本ではどうすれば良いの? ほとんどだれも正確には答えられないだろう。まして政策や経済さらには細かい技術を、さも物知り顔で解説する東京メディアに蔓延る面々においておや。ボーッと生きてんじゃいけませんわよ。え、子供に言わせて喜んでいる場合じゃないでしょ。
 いやいるかもね。一つ一つの問題をさも自慢げに解いて見せて、だけどその総合を全く考えない人物も東京メディアにはいる気がする。ちょうど政治家岸田さんのメディア版だ。一つ一つの問題に解答しますという番組を作って、自分が好きな聴衆を放送局の金の力で集めて、その金をもらった聴衆達が納得する(顔をするだけかも知れないが)ことで大きな顔ができる。そういう人もいると純粋経験で感じる。誰かとは言わないけどね。でも危機には役に立たヘンナ。東京メディアとは所詮そういうものさ。
 話を戻す。円安円高問題を考えるだけでも、複合的な問題であると解る。問題を一つ一つ解決するでは全くやっていけない。日本の沈没を加速するだけだ。国民全体に共有できる純粋経験に立って問題を正しく認識し、その答えを国民に問う。それが民主主義国の政治家の姿勢である。無能な受験生のように、問題はどこかから出される、それを解けば良いと必死で問題集に立ち向かうのでは政治家の資格はない。ましてや問題はマスコミが次々に出してくれる、それに答えを出していれば日本のマスメディアの一端を担い、大きな顔が出来る、など考える輩は、歴史のくずかごに投げられるだけだ。「屑」を排除するギロチンが、日本には無いことをありがたく思っているだろう。それが西欧文化と日本文化の決定的な差なのかも知れへんで。
 再生可能エネルギーをうまく利用する社会は、現代社会とは異なっている。どのような社会であるかは、これから全人類が理解し、協同で解決すべき問題である。しかし間違いなく巨大都市圏は、再生可能エネルギーには向いていない。
 東京圏は世界に類を見ない集中都市圏である。ニューヨークでさえ東京圏のようにむやみに集中はしてはいない。
 このことを、まずすべての日本人が知るべきである。これは数多い問題の一つではない。未来を考えるために本質的に必要な知識である。

東京のビルの建設ラッシュが、失われた30年の原因の一つである

 現在の東京はビルが林立する。東京に集中するテレビ局の本社はすべて高層ビルの中にある。事実多くのニュースが、ビルが林立する東京の夜景を背景に発せられる。しかしどのテレビ番組も、そのビル全体で消費する一日の電力量など公表などはしない。これだけ省エネが叫ばれて久しいのに。そしてすべてのテレビが脱炭素を喧伝しているのに。一度自分が働くビルの年間消費電力量を調べ、それが何世帯分の消費電力量になっているかを調べて見るが良い。そしてそれをもとに、自己の存在意義を主張できるならするが良い。報道関係ならデータを調べるのはお手の物だろう。まさか消費電力量という概念を知らないのではないだろうね。そうだとしたら、脱炭素を報道する能力が無いわけだから、現代の報道者としては失格であり、直ちに退職すべきである。現在の無能な報道陣は、退職し地方の困窮を知るために地方で職を得ることが日本の為になる。そしてそれに依存し蔓延る「専門家」達も。でも地方はそのような「専門家」を優遇する余裕はないだろうがね。
 失われた30年が始まったのは、バブル崩壊後である。バブル崩壊を1990年とみれば、前世紀最後の10年間が失われた30年の初期に当たることになる。これまで誰も指摘しなかったのは不思議だが、私自身IEAが公表している消費電力量を追跡してびっくりした。20世紀最後の10年間で、日本の消費電力量が飛躍的に伸びているのだ。特に家庭での消費と、それ以上に第三次産業での消費が、それ以前から見ると倍増しているのだ。このような急増は、欧米諸国では見られない。
 このような消費電力量の増加は、東京で特に顕著だった高層ビル群の乱立の結果である。また地下に何層にも潜ったエネルギー爆食いの快適な都市空間。すべてこのころ東京で起こった。東京のエネルギー爆食いが、かつてない勢いで増加したのである。まさに集中はエネルギーを爆食いすることの一つの証明である。しかしこのエネルギー爆食いは「経済成長」をもたらすものではなかった。むしろ経済停滞の重要な原因となった。東京都に集中するメディアは、それを報道しない。したくないのか、むしろ知りたくないのだろう。地方の立場に立てば簡単に解ることなのに。簡単なことも解ろうとしない、日本消滅の危機を創り出す東京一極目線の弊害である。

ドイツと日本の決定的な違いは何か?

 失われた30年が続き、さらに失われた時代の記録を更新しようとする日本に、ドイツがあっさりとGDPで追い越していった。人口減少だから経済停滞はしかたないと東京からはしきりに発信されるが、日本の人口が一億二千万を超えているのに対し、ドイツは八千五百万ほどの人口である。
 ドイツも日本も、良く似た国であると考えられてきた。しかしドイツの経済は問題を抱えながらも成長し、日本で始まった失れた30年の初期に、東ドイツと合併、さらには新しい試みであるEUで、お荷物国をも牽引し、お荷物国の経済成長にも貢献した。日本とドイツは何が決定的に違うのか? ドイツにGDPで抜かれたとき、東京の論壇からはそのような疑問すら聞かれなかった。理由が無いのに何故負けるの? それは日本の多くの地域の純粋経験から見たら素直な疑問だろう。こんなに真面目に働いているのに。「働けど働けどわが暮らし楽にならざる、じっと手を見る」明治の歌人の純粋経験での歌である。東京では忘れられた歌人かも知れないが、地方感覚では今も心にしみる歌である。何故令和の世になっても、日本の庶民は明治からの実感を超えることは出来ないのか?
 理由は日本には東京というお荷物があるためさ。これが答え。
 ドイツと日本の決定的な違いがある。それも私は直感的に認識していたが、最近になってデータを見たりして確認の論理作業中である。種々のデータは明らかにドイツの地方分散型社会を示している。日本は東京一極集中社会であることに対し、ドイツは典型的な地方分散型社会でなのである。そしてすべての地方都市が多様性を保っている。

東京一極集中は、報道の脆弱性を生んだ

 私はコロナが始まる二年前までは東京にいた。職場が東京だったからである。純粋経験で東京は嫌だなと感じながら。
 京都に移り住んで二年目の終わりにコロナが始まった。
 東京以外の地方に移り住んで、東京から発信されるニュースに、非常な違和感を覚えた。東京圏の人々は気がつかないかも知れないが、コロナの初期、各地の知事がそれまでになかった注目を世間から浴びることになった。
 日本ではほとんどのニュースが東京から発せられる。コロナの初期ではつまり第一波では、東京からはしきりに危機感が訴えられていたが、地方ではほとんど感染者はいなかった。地方の恐怖を東京がむやみにあおったのである。
 嘘だと思う人はデータを調べると良い。私はそのころ毎日データを見ていた。そして科学者の端くれとして、専門分野と全くかけ離れたコロナの感染者数を、初歩的ながらも統計的に理解しようとしていた。そして第一波の時次のような発見をした。東京都の感染者数は、全国の感染者数のおよそ1/3であると。
 なぜ1/3の数値まで覚えているのか? それは全国の新規感染者数の増減の経緯が、小池百合子が発する東京都の感染者数の経緯とほぼ一致し、驚くことに全国の新規感染者数と、東京の新規感染者数の比がほぼ一定の3対1であったからである。
 これを不思議と思わない人は失礼ながら思考をしてない、つまり良識を使っていないと私は思う。純粋経験を持って不思議と思うことが正常と思う。東京都の人口は日本の人口のほぼ1/10である。そして日々の感染者数の比が1/3なのである。全国が明らかに、集中した都市ー東京の影響を受けている。致死率が異常に高かった初期の感染拡大の責任は東京にある。
 そのころ私は各地域の統計を、公式に都道府県から出るネット情報から取っていた。テレビで放映される東京と全国の感染者数以外は、すべてネット上で、各道府県のHPを見ることになる。東京圏はほぼ東京都と同じ傾向で推移したと記憶する。ところが大阪にしろ、福岡にしろ、札幌にしろ、京都にしろ、東京とは全く違った感染者増減の傾向を示していた。
 そして純粋の地方すべてでは、感染者が出てもほとんどすぐに新規感染者ゼロになり、コロナ渦が始まって数ヶ月にわたって感染者ゼロで推移した県もある。その県知事の名言は今も心に残っている。「わが県最初の感染者になることを恐れてはいけません。だれもそれを非難できないのです。」という趣旨だった。泣きたくなるほどうれしい言葉だった。日本にはまだこのようなしっかりした指導者がいる。各県の知事が、それぞれの事情に合わせて、前代未聞の事態に懸命に対応していた。安倍・菅と続く中央政権は、それなりによくやっていたと思う。結果的に日本でのコロナ死者の人口に対する割合は、かなり少なかったのではないかと思うからである。
 しかし東京メディアは違った。都知事も違った。危機に対応するどころか、これをチャンスとばかり、懸命に自己表示をしたのである。コロナで外に出なくなった人たちは、家でテレビを見る。テレビに釘付けにされた人々は多かったろう。共通の興味がコロナだった。これは間違いなくメディアのチャンスである。そして二期目を目指す現職都知事のチャンスである。平時ではそれは許される。
 毎日のニュースで都知事が画面の左から颯爽と現れるのが日課になった。そして毎日何かしら印象的なフリップをかざし、タイミング良くそれを見せるのが常だった。あのフリップのデザイン費用も馬鹿にならないのではないだろうか。一方地方の自治体はそんな予算をまるで持ってはいなかったろう。
 東京発主要メディアもその姿をひたすら追い続けた。そして東京都と厚労省が発表する、東京都と全国の感染者数のデータを競って発表した。しかし他県の感染者数を追跡したメディアはなかった。そのようなメディアが、仮にあったとすれば気づいていただろう。多くの県では新規感染者数がゼロである日が多く、時々現れては数日でまたゼロに戻る県が多かったことに。
 これが何を意味するのか、東京でどれだけの人に解るだろうか? 普通の地方にとっては、コロナは県の外部からやってくることを意味する。外部とは他ならぬ東京だ。東京が全国に迷惑をかけていたのだ。東京でそう考えた人はほとんどいないだろうが、地方からはそう見える。そのことに思いも寄らぬ人たちのめでたさよ。
 感染者数推移に見る、東京と全国の奇妙な類似は、初期の頃のコロナ感染者は、ほとんどすべて東京経由で広がったのであると考えなければ理解できない。感染の種は東京で発生し、その種を持った移動者が東京から地方に移動して全国に広まっていったと、明らかに示している。
 東京一極集中は、地方からの目を完全に失わせる、偏った全国報道しか生まない。

偏った東京メディアの脆弱さ

 東京都知事の学歴詐称問題が何度も浮かんでは、そのたびにうやむやになってきた。現都知事は、思いつきの発信力だけで権力の階段を駆け上ってきた人である。その場しのぎはお手の物である。ところで東京メディアは、彼女の実績を検証したことがあるだろうか?
 彼女が最初に政治家として脚光を浴びたのは、クールビズの発信だったのではないかと思う。非常に分かりやすい提案で夏場には涼しい服装をしましょうという、ちょっと考えれば当たり前の話なのだが、それを東京メディアは褒めそやした。当たり前やろ、夏場に暑苦しい格好してどないすんのって、関西人だったら言って取り上げもしないと思う。そして現都知事は関西人である。東京メディアなんてアホよって内心思うてたかも知れへんで。そう騙される東京メディアが悪い。
 しかし東京メディアには責任がある。政策の成果を調査する責任が。そしてそれを報道する。そうでなくては、健全な民主主義は成り立たぬ。そのような調査をやっただろうか?
 クールビズは言うまでも無く、夏の電力量消費を、クーラーの稼働を少なくすることで減じようとの提案だった。それなら検証は簡単である。電力量消費は毎年正確に公表されている。それを見れば良い。それもビズを行う仕事場(第三次産業)と、家庭の電力量消費を見れば良い。簡単なことである。
 調べたら解るが、クールビズが叫ばれた年以降に、電力量消費が減少しているとはとても見えない。一部メディアで結構評判が良かったニュースキャスターが、仕事場ではこれだけ節電した。家庭でも君たち頑張りたまえと、上から目線(東京目線)でのたまわれていたが、仕事場で節電されていたという信頼できるデータは、残念ながら存在押しない。クールビズを叫ぼうが叫ばなかろうが、一切効果は見えていないのである。関西人なら言うだろう。ほら見てみぃ、夏は誰かて言われんかて涼しい格好をするんや。アホチャウか。でもな都知事も関西人や、そんなこと解っとるがな、思うてるかもしれん。
 東京メディアはこの指摘すらしなかった。怠惰なの? 無能なの?
 ちょっと言い過ぎたかな。えらいすいません。そういう見方もできるよって言うとるだけですがね。
 さて学歴詐称問題に戻ろう。最近のメディアの報道で私が知ったことによると、コロナ渦の中での前回の選挙で、学歴詐称問題が再び起こってきた。それで現都知事再選が危うくなったそうだ。そのときタイミング良くカイロ大学学長声明が在東京エジプト大使館から出され、それには「現都知事がカイロ大学を卒業したと証明する」とあったと某大新聞が記事にし、その結果現都知事は圧倒的に再選されたという。
 これが事実ならあきれるほかはない。
 私は当時すでに東京を離れていたので、都知事選についてはニュースなどで軽く知っただけである。しかし今上記報道を見てみると、カイロ大学学長がまさに選挙中、選挙結果を左右する重大声明を発し、それを無批判で某新聞社が報道したことになる。報道の客観性はどこにある。また他国による明らかな選挙工作である。それを無批判に軽々しく行うとは。東京一極集中のメディアの脆弱性を露呈したものだと言わざるを得ない。それに踊らされて選挙結果を変えてしまったとすれば東京都民の一票の軽さを認識するしかない。東京に集中する一票の重さをひたすら重視し、地方の選挙区の投票の重みを軽くしようとする、汚れ無き東京の弁護士達に顔向けができまい。いやそのような弁護士達をしきりに報道してきたのは東京メディアの責任だね。そして、他国に選挙干渉を受けた現都知事選挙に疑問を持たずして、今回の新たな学歴詐称問題を、まさに選挙前にまで引き延ばした、他の東京メディアにも責任はあろう。地方は皆怒るで。こんな軽い東京都民の一票と、地域を通じて日本を真剣に考える全日本の一票とどっちが重いんやって。
 筆者は福島原発事故後、クールビズが効果はあったのだろうかと気にして調査したが、クールビズのかけ声では全く効果的な節電の役に立たなかったことに気がつき、東京目線の報道の軽さを痛感した。 しかし今回は軽さにあきれるどころか、どうしようもないという思いの方が強い。
 ホンマアホな東京目線やナ。こんな町を首都と呼ぶのは、もういい加減に止めようという声が、間違いのう出てきまっせ。どうする家康って、否応なしに答えを迫られて、えいやって腹黒い家康が作った町江戸が、今日本の邪魔になっとるんでっせ。維新前夜西郷はんが情けをかけて、無血で解決した「江戸問題」の付けが、今廻ってきとるんやろな。京都は幕末の激動で家も焼かれ、戦争の舞台にもなった。それを踏まえてあんときの江戸問題は、一つ一つの問題やのうて、日本の将来に関わる大問題やったに違いないからな。荒廃した京都を捨てて、江戸にとりあえず天皇は移動してもらおうと、西郷ハンは考えたかもしれん。そのためには江戸を焼いたらあかんと。

集中が創り出す衰退とその解決としての琵琶湖疏水

 東京圏は今や日本の人口の1/3近くの人口を有しています。しかしもっと集中が著しい国があります。それは韓国です。韓国の首都ソウル圏は、韓国の人口のおよそ半分を有しているそうです。そして韓国の少子化は日本より酷いのです。大都会集中が少子化を生むのです。
 東京圏を離れて見れば純粋経験で解りますが、子供達が育ち可能性を伸ばす空間は、間違いなく地方に多いのです。
 島根県大田市の市長楫野弘和さんが、東京の人口を地方に分散させる政策を、と国に対して提言しておられますが、諸手を挙げて賛同いたします。それこそ未来を切り開く政策です。企業を移転させる、大学を地方移転させる、地方の魅力を引き立たせるために、東京から地方に移住し、地方で起業する人たちを応援する。そのために国税を使いましょう。そのような政策に税金を使うのは、未来の日本を築くためです。下記に紹介する琵琶湖疏水でも、それまで外人の技術者に実行させるのが当たり前だった様々な作業を、企画者北垣の英断で日本人による作業に切り替えました。当時の日本の若い人たちに機会を最大限に与えたのです。現代の若い人たちに、日本再生を、いや世界の新しいあり方を、日本文化の経験を通じて探すことを、生涯の仕事としてくれるための援助を与えましょう。日本を再生する気概を持った若者達は、東京を離れることが必要です。ちょうど維新後また敗戦後、気概を持った若者が地方を捨てて東京に向かったように。かつては気概を持った若者は、東京に行くか故郷を興隆させるかを選択しました。しかし今は東京に残る選択は、気概を持った若い人が行うことではありません。東京で何かを行っても、何も新しいことは生まれないというのが、失われた30年の教訓です。その代わりチャレンジする場所は数多くあります。日本全国の多様な地方に、また全世界に。
 東京に人口を吸い取られて衰退の危機を迎えた21世紀初期の日本の多くの地方があります。今から一世紀以上前、東京に人口を吸い取られて衰退の危機を迎えた地方が一つありました。京都です。西郷さんのおかげで焼けずに済んだ東京に天皇が移られた結果、京都は幕末に三十数万人あった人口が二十数万人に減ってしまうほどの激しい衰退を迎えました。その衰退に取り組んだのが、第三代京都府知事北垣国道です。
 京都府知事就任に当たって、北垣国道は伊藤博文と松方正義に頼まれました。京都を衰退から救い、持続的に繁栄する道筋を探してくれと。この依頼は北垣の日記の記述にあります。維新時の政治家達は、一つ一つの課題を解決するみたいなアホなことは言わなかったことが解ります。いや当時の幕府や各藩の長老達は言ってたでしょうがね。そういう発想を乗り越えて新しい発想で突き進んだのが、維新の志士たちだったのでです。
 北垣が案出した解決策は、自然エネルギーで京都の伝統産業を発展させる地域の産業革命を起こそう、というものでした。京都の衰退の危機回避策を求められた北垣は、発展のためのエネルギー源を求めますが、それを闇雲に化石燃料に頼ることなく、自然のエネルギーを利用することに思い至るのです。闇雲に突き進む西欧文化に対し、自然と共に生きることを長い歴史でその知恵としてきた、日本伝統に基づいた発想でした。
 一方西洋文化のもとで産業を急速に発展させるために実行されたのが産業革命です。その産業革命に追いつかなければ日本は滅亡するかも知れぬと言う危機に対応して幕末の志士たちは活動しました。西欧に追いつくための東京奠都の結果、衰退した京都を持続的に復興させるために考えられたのが、伝統の地京都で、伝統産業を支え更に持続的に興隆させるために、地域の再生可能エネルギーで産業革命を起こすという発想でした。その帰結として北垣は琵琶湖疏水を思い立ちます。現代の世界的な大問題を解決する参考になる話だと思いませんか。琵琶湖疏水の一部である哲学の道が、西田幾多郎を通じてそれを発信しているのです。
 東京奠都は、京都を衰退の危機に陥らせました。それを克服し、持続的な繁栄の道をと問われた北垣が出した答えが、京都を伝統工芸で復興させるための地域産業革命と言うものでした。東京一極集中は日本を衰退の危機に陥らせています。北垣に習って地域再生可能エネルギー産業革命を考えようではないですか? 地域が自分の地域の伝統に誇りを持って、地域にある自然エネルギーで発展させる方法を考えるのです。琵琶湖疏水は伝統的な日本文化と、西欧文化が協力して作り上げられました。それを純粋経験を通じて、西欧文化と日本伝統文化の、ヘーゲルの言葉を借りると止揚を考えた哲学者西田幾多郎を引きつけたのです。西田は彼が具体的な思索に入る前に、純粋経験として哲学の道を歩きながら、日本伝統文化と西欧文化の融合こそが、持続社会を造りうると感じていたのかも知れません。また西欧の人たちが今哲学の道に魅力を感じているのも、持続社会へのヒントを哲学の道が示していると、純粋経験として経験しているからかも知れません。

この記事の各段落は、すでにこのブログや「千年文化を考える会」のHPで発表したものをまとめて書いたものです。その議論の詳細はそれらをお読みください。とりあえず本記事をアップしますが、後日各段落に、もとになった記事などのリンクを張ります。