石丸伸二さんは東京一極集中に本当に危機感を持っていることが、14日のサンジャポと、そこまで言って委員会を見てよくわかりました。本当にうれしいです。こういう政治家が若い人から出てくるのは、後期高齢者に入った、社会問題を考え始めて二十年ほど経つ物理学者である私にとって(当然学会主流ではありませんし、物理学者本来の仕事とは思われないので政府の補助金ももらえませんが)、涙が出るほどうれしいです。
実感する地方の疲弊
退職した後東京から京都に移り住んで、また地方に旅をして、地方の酷い疲弊がよくわかります。私は原発事故以来、日本の将来についてじっくりと考え続けましたが、一極集中した東京圏をこのままにすれば、日本の将来はないと、真剣に感じています。それはこのブログでも、また千年文化を考える会のHPでも折に触れて書いてきました。しかしそのような主張は東京の人は聞きたがらないし、地方の人は東京に勝てる力はないと、諦めきった現状です。
東京一極集中は長続きしません。それ以上に長続きさせてはいけません。何故なら長続きすればするほど、未来社会に向かって羽ばたくべき現代の日本が受けるダメージが大きくなるからです。
それは原発事故の教訓から、私に見えてきました。3.11の地震で東京も酷く揺れました。福島原発事故で原発が止まり、また多くの中小火力発電も止まりました。そして全く計画的とは言えない「計画停電」が都のすべての地域を襲いました。町の灯は暗くなり、皆も萎縮してしまいました。
そのころ私は日本エネルギー学会に所属していましたが、計画と言いながらあまりの無計画さに、計画停電を行うなら、日本人がすべてエネルギーに対する簡単な基本的知識を持った上で、そしてエネルギー消費の実態を知った上で行うべきだ、という投稿を学会誌にしたところ、まさに時宜を得ているということで、通常数ヶ月かかる投稿掲載が、急遽次の号に掲載されました。あのころは東京都のほぼ全員が原発反対であったと、当時東京に住んでいた私は感じていたものです。
そしてちょうど執筆中であった一般の人に向けたエネルギーの基本的な考え方についての本を、編集者の方の大変な協力を得て完成させました。何故ならエネルギーは物理学の基本概念であり、それを分かりやすく国民の皆様に伝えることは、物理学者の義務と思っていたから(今でも思っています)です。
編集を担当して頂いた方は、あの原発事故の恐怖の中で、その作業を遂行するのは精神的にとてもつらかったと思います。原発はエネルギー消費に占める原発電力供給の割合についての統計を見ても、実は役に立っていないことも、またどこでエネルギーを多く消費しているかも、義務教育を受けた人ならわかるように書いたつもりです。
原発事故当時、東京でみるすべてのテレビチャンネルで、エネルギーに関する報道をしていたのは、当時首都圏にいた人は当然皆知っているだろうし、というより必死でテレビニュースを見ていたはずだし、事実そのころ私が知っていた落語家の一人は、「あの事故を受けた後には、人生全く変わってしまいます」なんて高座で話をしていた人もいましたね。そんな言葉一年経たずに言わなくなりましたが。
彼を非難してはいけないのは解っています。お客様である都民の意識があっという間に変わったのです。東京都民の軽さをつくづく感じました。この落語家は、どこかで私の経歴として書かせて頂いた、鈴本演芸場でお中入りに呼んで頂いた方とは、別の人です。念のため。
原発事故に見た東京とメディアの脆弱さ
原発事故のころのテレビでの報道は混乱していました。NHKのニュースでも、エネルギーの単位であるkWhを、kW/hと平気でニュースで何度も流し、そして訂正も一度もありませんでした。おそらくは、というより間違いなく、アナウンサーも横に座っていたMCも、また制作スタッフも、間違いに気がつかなかったと思われます。あの頃のニュースをNHKの録画をNHKは持っているでしょうから、調べてみればわかります。何故気がつかなかったかは、あの時期は皆が動転していたという言い方もできるでしょう。しかし今でもkW、kWh、kW/hの違いを説明できる人は、メディアに出まくっている人のうち、何%いるでしょうかね。この三つのうちほとんど意味が無い単位も含まれているのですが。NHKだけではありません。東京のすべての局の放送から、メディア界の人たちのエネルギーに対する無知ぶりを、さらけ出していました。
しかし東京人の原発に関する嫌悪感は、あっという間に消えました。東京はエネルギーを必要としているからです。もちろん現代文明人たる日本人すべてが、エネルギーを必要とします。でもエネルギーを爆食いして栄える町が東京なのです。そこで節電とか、エコだとか言っても、何の効果も生めないほど、エネルギーを使いまくっている首都東京です。一方で必要なエネルギーを細々としか使わずまた得られない消滅寸前の地方、しかしそこには食料が取れる山や海、そして畑があり、自然エネルギーにも恵まれている、その両方が不思議に共存する「先進国」日本です。
追いつけ症候群の最初の例としての東京
日本は今過密と過疎に悩んでいます。それは日本を初めとするすべての「後進国」の宿命であるように思えます。19世紀の先進国に負けまいと、日本の志士たちは明治維新を遂行しました。そして先進国に追いつくために、「首都を江戸にうつし」東京奠都、江戸を東京に改めました。
そして東京を先進国情報収集の基地としました。その知識は書籍を通じて広まりました。すべての地方に書店がしっかりとありました。しかし戦後荒廃した日本は、荒廃から復興するために、地方から人的資源を首都に過度に集中するようになりました。高度経済成長期、金の卵ともてはやされ、若者が集団就職を東京に移住して行うことは、毎年春の定例ニュースになりました。そこに人々は復興日本の希望を見ました。一方このような極端な人口移動は先進諸国では見られませんでした。集中する東京は、戦後復興で先進国に追いつけ追い越せのために、一時的に必要なことだったのでしょう。
その結果20世紀も終わろうとする頃、日本は経済大国二位に躍り出ました。しかしバブル崩壊後、すぐに失われた時代に入りました。これは当然といえるでしょう。追いつくために集中をしました。だが伝統文化を受け継ぎながら、持続的繁栄社会を継続的に発展させるには、集中は邪魔になる可能性が高いという基本的な真理を、人々は忘れてしまいました。集中は流れを止めます。血管に何かが集中すれば、人は死に至ります。また集中は画一化を生みます。画一化は往々にして停滞を創り出します。今の東京の人には集中の結果対等な規模の地方が存在しなくなった結果としての「東京目線」とも言うべき画一的な見方があることを、特に東京にある主要メディアを、東京以外の地方から見てみると強く感じます。
先進国は過度の都会集中をしていない
日本は明治以来遅れて先進国を目指しました。今の日本はG7の一員であり、先進国だと思っている人がほとんどです。しかし先進国とは産業革命と民主革命を生み出した、西欧諸国を本来意味します。つまりほとんどのEU諸国と、英米豪加が本来の「先進国」だと考えるのが正しいのだと私は思います。それを私は日本を卑下するために言っているのではありません。逆です。戦後無理矢理身につけた「西欧流」の考えは、日本を浅薄にしてしまったと思うからです。
東京圏ほど集中した都市は、先進諸国にはないことを認識すれば、日本は本来の意味の先進国ではないと多くの皆さん解って頂けるでしょうか? 日本の首都圏には三千数百万の人が集中しています。ニューヨークの都市圏でさえ、せいぜい一千万(恐らくそれ以下)の人しか住んでいません。三千万以上の人が住む都市圏を抱えているのは、日本と中国くらいでしょう。あるいはインドなどの発展途上国にはあるかも知れませんが。そしてある程度の広さの国土を保有し、その人口の30%以上が一つの都市圏に集中しているのは、韓国と日本だけだと思います。つまり大都市一極集中は、アジアという後進地帯の中で、先進諸国に追いつけと努力した結果の、そしてそれに比較的成功した国特有の現象と考えられます。後進国に見られる追い越し症候群とでも言えるでしょうか?
人口減少の中で一極集中が進めば、他の地方は衰退するに決まっています。衰退する地方の衰退度と、成長する都市部の成長度が拮抗すれば、プラスマイナスゼロになるのは、中学生でも解る理屈です。正の数と負の数を足してゼロになる。昔中学校で皆さん習ったでしょう。失われた30年はこれに陥っているのですね。
そういう風に考えると、日本の現在の現象は、世界中でこれから起きることであると、気がつくのではないでしょうか? だってアジア、中南米、旧ソ連圏、アフリカ諸国と、これから追いつけと頑張る国は、世界中に存在するのですから。
先進国は追いつく必要が無かったので、都市集中を生み出しませんでした。確かに産業革命以来、都市が大きくはなりました。しかしむやみやたらに大きくはならず、国の中で多極性が保たれ、そして多様性が担保された結果、持続的成長が誰の目にも見えることが保証されました。そしてこれから更に顕在してくる持続的成長問題の基本ー脱炭素化ーすなわち産業革命以来続いた化石燃料時代の終焉に、比較的容易に対処できるようになっています。
しかし大都市を抱え込んだ似非先進国はエネルギーを爆食いする大都市圏に、どのように再生可能エネルギーを供給するかという、誰が考えても無理難題である問題を課せられることになります。この問題は現代の天才的政治家石丸さんでも、解くのを諦めるほどの難問です。それに比べれば、東京にも問題に気づく人が多くいる現代にに、東京一極集中をひっくり返すことを考える方が、ずっと易しい問題と思われます。そして石丸さんとそれに続く若い人の熱狂は、それくらいの問題は解決してくれる、そう感じた2024年の都知事選でした
石丸氏は、過疎地の特権村の人々と、過密地の特権村の住民に対して果敢に戦った
昨日の日曜日、私はサンジャポとそこまで言って委員会を初めて見ました。石丸さんが何を言うかと非常に気になったからです。今回の都知事選以前には石丸さんの存在さえ知らず、都知事選では東京一極集中を問題にする候補がいるということをネット記事で見つけ、東京メディアの報道やネットで断片的に石丸さんの記事を読んでいただけだったからです。
その前日土曜日には、YouTubeで地方放送局の放送を録画した安芸高田市長時代の石丸さんの動画も見て、なるほどこれなら注目されるのは当然だと思いました。また石丸さんに対するネガティブな多数の記事の原因の一つとなっている、都知事選当日の総日テレの選挙特番の録画も切り貼り無く見ました。そして石丸さんの答え方に共感を覚えました。よく言った、石ちゃんです。
もともと選挙速報の特番は、選挙への興味を本質的に失わせるものです。選挙特番の人たちは投票時間直前に、急いで駆けつけて投票する人もあるはずだということを、考えたことがあるでしょうか? 庶民には時間に追われている人も多いのです。そのような人が当日時間が無く慌てて投票に行って帰ってテレビを見たら、もう結果を報道している。素直な人なら何だ急いで投票したのに、投票しなくても同じじゃないか? そう実感するでしょう。そのために期日前投票があるというのは、一つの建前に過ぎません。それなら例えばいっそ一週間選挙期間にすれば? 一週間の間、一生懸命各陣営の人が情勢判断をし、それを元に更なる戦略戦術を練り直す。そのほうが選挙は盛り上がるのでは? 選挙が盛り上がれば、人は政治を真剣に考えるのでは? 若い人がせっかく大人の仲間入りして、投票権を持ったのに、自分の一票の軽さしか感じない仕組みをあえて利用する東京メディアの醜さよです。だって自分の一票は明らかに結果に反映されないと、ことさらにさらけ出しているのですよ。
そういう一票の軽さを見事「可視化」している人々が数人でよってたかって、本来単独である候補者に、彼らが期待する答えを候補者から引き出そうとする、そのような異常さを、石丸さんは見事に「可視化」していました。すごく賢くまた強い人だと思います。期待した答えが出なければ、売名行為なのですかなど失礼にも尋ねるのは、まさにゲスの勘ぐりとしか言いようがありません。「恥を知れ、恥を」と怒鳴りつけられなかったことがせめてもの救いだと思って頂きたいものです。東京という人口過密な都市の、その中の小さな集団である東京メディア村の住人の考え方を、それが当たり前だろうという感覚で候補者に当たる、その行為はちょうど、安芸高田市という過疎地の議員村という特殊集団が、自分たちのやり方を当然として、一生懸命働く市長を「悪人」に仕立て上げる。過疎地も過密地も全く同じような既得権者を創り出して、既得権者は自分のやり方が当然だと無反省に考える、そういう日本の異常さを、まざまざと見る思いがしました。
これも東京一極集中の悪しき結果だと考えられます。一極集中は意見の多様さを押しつぶすのです。過疎の地域と過密な地域を決定的に分断する。そして分断された過疎地と過密地では、それぞれの地での既得権村を創り出します。そしてその既得権村の住民の主張は、正反対と言えるほど全く異なりますが、よく見ると全く同じ馬脚が見えてくるのですね。
東京一極集中を打破する戦略はまだ見えていない
それらの動画を見た後サンジャポとそこまで言って委員会を見ました。大変面白かった。実感としては皆石丸さんの主張は少なくとも一面では正しいと考えたように見えました。だけど東京一極集中をあれほど深刻に考えたことはないというのが他の出演者の素直な感想なのではないでしょうか。それも当然です。すべての出演者は東京都市圏という、日本の1/3の人口しか持たない地域に住み、その中で比較的高額な手当をもらっている。その手当のためには、東京を中心とする視聴者すべてに、ささやかな喜びと安心感を与えないといけない。原発も怖かったけど、また原発事故が起こるときには自分は生きていないだろう。幸い少子高齢化を生んだ現代東京文化を代表する私には子供はいない。そんな感じでしょうかね。
でも日本人は今、皆が危機をなんとなく感じているのですね。京大の学者藤井聡氏が石丸さんの言動を、日本破滅の危機を導くと言って、大阪の政治家橋下さんの反感を買っていましたが、石丸さんはもともと危機感を持って、危機を克服するために、自分で考え抜いた結果の行動であり、それが危機を導くというのは、言いがかりに過ぎません。藤井さんも危機感を持っていて、それを自分なりに回避しようと考えていた時に、ご自分が解らない現象に出会ったので、学者の責任を感じて危機を引き起こすと言われたのでしょうが、それは間違った結論であると、分野は違っていながらも同じ学者として思っています。危機を感じているのは、日本人の多くの人であり、それを藤井さんも感じてそれを克服する手段を考えておられる(と想像いたします)ことは素晴らしいことと思いますが、問題に対して結論を出したら、その結論の正しさを常に検証し、間違った結論と自分で解ったら、はっきりと訂正するのが学者の務めであると思っています。
言って「委員会」では、皆さん結果的に石丸さんの「政策」のなさを指摘されたのだろうと思います。ここで政策の「定義」をするつもりはありません。断片的な記事で見る石丸さんの評価は、「政策」が読めないことに集中しているように思うから、多様な皆様の意見を仮に集約して政策がないと書いています。藤井さんもどこにも政策が見つからなかったという批判で、石丸さんの戦術の一環であるSNSを、それに依存していると言っておられるのですから。
現代は危機の時代です。それもグローバルな。人類始まって以来の危機かも知れません。何故なら人類が始まって以来、始めて人類の活動自身が人類の破滅をもたらすかも知れない、そういう時代です。かつて巨大化した恐竜の時代があった。しかし巨大化した恐竜は、巨大化したが故に破滅してしまった。そういう説が、私の少年時代にあったように思います。
西欧的思考の最終兵器ー核兵器、すなわち人類を滅ぼしかねない兵器ーを、ソ連東欧共産国家崩壊という西欧思考の延長で無効化できた20世紀末からよみがえったゾンビのように、ロシアという西欧に遅れた「後進国」のプーチンは、西欧が生み出した最終兵器である核の脅威を、あたかも消滅したソ連という虎の威を借るがごとく使って、世界を震撼させています。プーチンは西欧を一極とする世界秩序に、ソ連時代の幻影である武力を持って対抗しようとして、少なくとも西欧世界から反感を買っています。
しかし東京一極集中が日本の破滅を生むように、西欧一極集中は世界の破滅を生むのです。西欧は進歩と共に、核という破滅をもたらしかねない道具を生み出しました。また化石燃料(核燃料も)大量消費という進歩のための道具を使って、自然環境を破壊しています。
この危機を脱するのが、現代人ー特にゆとりを持つ先進国人ーの最大の目的でしょう。
しかしこの危機を脱するための「戦略」はまだ誰にも見えていません。戦略が見えないなら、「戦術」に過ぎない政策を細かく論じたって意味をなしません。ストラテジー(その和訳が戦略)という言葉は日本でも飛び交います。自分の会社が成長する戦略(ストラテジー)は多くの人が考える。しかしタクティクス(戦術)という言葉は日本では聞きません。石丸さんに政策が見えないという言葉は多くの人が言います。でも本来は何か目的があって(英語ではgoal)、それを達成する為の戦略(ーストラテジーー大まかな実現可能なあらすじ)があって、その実現のために使う手段が戦術なのです。政策は基本的には戦術に過ぎません。言い換えれば現代日本人には、世界に共通するゴールも、日本の目的とするゴールも、したがってそれを達成する戦略も見えて無くて、とりあえず戦術に当たるだ政策だけが一人歩きしているようなものです。
東京一極集中打破は、目的でもあり戦略でもあります。現代社会の根源的な目的は、持続可能社会創出です。このままでは人類があたかも恐竜のように破滅する。そうなのかも知れません。地球の為だと現代人は皆言いますが、人類が破滅してもこれから50億年、地球は存在し続けます。地球という物理的な自然は、人類の物理的な存続を超えて続きます。明日太陽が爆発することは、石丸さんには申し訳ないですがありえません。何故なら過去の宇宙の歴史でも観測されていないのです。
西欧文化の究極の結果としての相対性理論は、今現在という限られた時間で、地球という恐ろしく限られた空間でも、宇宙の全歴史を観測できることを明らかにしました。百五十億年ほどの宇宙の歴史を見ても、太陽規模の恒星が、急に爆発した事実は全く見られないのです。一方相対性理論と量子論を元にした物理学上の見解では、すべての恒星のエネルギー放射と(恒星の一つである太陽のエネルギー放射はこれにしたがいます)、その寿命とその死の結果は、すべて今現在地球というちっぽけな天体から見る、宇宙の姿と矛盾無く見えているのです。明日太陽が爆発する可能性は、限りなくゼロに近い。そして人類が百年以内に破滅を迎える可能性は、ゼロであってほしいがどう考えても無視できない大きさを持っているのです。
東京が後数百年、林立するビルと日本での集中する都会として存続する確率はゼロに近く、それは西欧近代の流れで世界が存続する可能性よりも大きいが、それも同じくゼロに近い。
数百年規模で人類が存続する可能性と、そしてその中で日本の存在が世界的に見て無視できないものである、そのことを誇りに思って持続社会へ向けて世界に発信していく。そのような社会を作りたいものです。そのような目標を石丸さんという若い政治家が発信しました。そのための戦略はもちろん、戦術はまだ見えません、つまりいわゆる政策も、誰一人立てられないのです。政治家には政策論争ではなく、目的論争、そしてその為の戦略論争を求めてやみません。何がやりたくて政治家を志したのか、それを現在の政治家は発信すべきだと、石丸さんは主張していると私は受け止めました。
世界でも多くの人が同意してくれるでしょう。持続する社会を造るのが、これからの大きな目標なのだと。SDG’sはそのような発信です。その一つ一つを解釈し遵守する項目群ではなく、ちょうど十七条の憲法のように、これからの社会を建設するために皆で考えたい指針を与えているのです。
当然世界の国々では、持続する為の問題は異なってきます。西欧先進国では脱炭素です。しかし日本では東京一極集中打破です。それには日本では少子高齢化を止めないと行けません。これは東京一極集中を打破とほぼ同義です。何故なら集中した大都市は、子供の空間を奪います。私が子供の頃、遊び場は家の近くに多くある空き地、そして近くの道路でした。東京には家の近くにはそのようなものはありません。でも地方にはあります。京都の私の家の近くにも、公園や道路に子供の遊び場があります。
また近くのショッピングモールには、週末になると子供を連れたお父さん、お母さんで賑わいます。子供を二人連れた人もごく普通にいますし、三人連れた人も少なくありません。地方の都市に旅行しても同様の風景が見られることが多いと感じます。地方移住が当たり前に進めば、少子高齢化は止まるでしょう。
石丸さんは少子高齢化は先進国共通の課題であると言っておられました。しかし似非先進国はそれが更に酷く表れています。一方後進国では子供が多いことが通常です。日本もかつてそうでした。先進国を創り出した西欧近代主義には、少子化の要素である何かがあるのでしょう。そして似非先進国の過度に集中した都会は、西欧近代主義を鵜呑みにして集中した人が集まるのですから、その何かを過剰に持っているのではないでしょうか? 少子高齢化を止めるには、その国固有の文化を取り戻すことが必要でないかと愚考します。日本文化も千年以上持続し発展してきました。そしてその文化をやはり千年規模で残したいと思えば、子供に期待をかけざるを得ません。
真の目的である持続社会建設と、それに伴うべき少子高齢化問題解決は、これから日本国民が皆さん加わって、議論しその戦略を立てていかなければいけません。学者と政治家は、その推進のための両輪となって活動すべきなのだと思っています。