石丸氏の言葉「政治屋一掃」って言葉に、久しぶりに政治屋って言葉を思い出した私。選挙が終わって、ネットで見ていると、政治屋って言う言葉を、石丸氏に返ってくるブーメランとしたがっている、東京の評論家マスコミ関係者が嫌というほど出てきている。言葉がブーメランのように返ってくる、とは東京の評論家が好む批判ではある。
しかしである。石丸氏が言った政治屋の本来の意味をこれらの人は知っているのだろうか?
私の高校時代だから今から60年ほど前である。英語の先生に政治家と政治屋の違いを教わった。英語の先生から教わったのだから、英語からの日本語訳である。まだ外国(欧米)滞在経験者が、限りなく少ない時代、通常の高校で外国語と言えば英語しかなかった時代である。高度成長は進行していたが、まだ欧米諸国は追いつけ追い越せの対象だった時代である。教えられた二つの単語の違いを今も強い印象で覚えている。
政治屋とは軽蔑の言葉であると私には強く印象づけられている。八百屋さん、お菓子屋さん、ケーキ屋さん・・・。庶民の生業をたてるために、一生懸命働く人たちは、すべて・・屋さんだった。
政治はそれを保護する役割を持つ。細々ではあるが、安心して代々続いた・・・屋さんを、子供にも継がせたい、孫にも継がせたい。安心して子孫が繁栄できるようにしたい。
その庶民の願いを叶えるのが政治の役割であり、その象徴が千年以上続いた天皇制の役割であった。私が高校生であった頃、まだ戦後20年しか経っていなかった。失われた30年より短い期間しか過ぎていなかった。心ある学校の先生達は、その子供時代の、あるいは青年期時代の、戦争の記憶を持って、自分の言葉で教えてくれたと思う。そのような時代に私のクラスの担任であった英語の先生が、政治家と政治屋の違いを教えてくれたのだった。明らかにチャーチルを意識していたのだと思う。なんとかイギリスで格好を付けようとしたチェンバレンや、同じく日本で格好を付けようとした近衛秀麿を単なる政治屋と見なして。
政治屋とは庶民の生業を表す「屋」ではなく、もっと重みを持った「家」の仕事をする政治家との、区別の言葉である。心意気を持っているか、それとも単に生業として政治をやっているのか、その違いを表す言葉である。
どうも東京に巣くう評論家や、それに金魚の糞みたいにくっつくしか能が無い、大手メディア記者や評論家達には、そのニュアンスの違いがわからないのだろう。
政治家と政治屋の違いは、数十年前には多くの人にに共有されていたと思う。しかし東京から主流とされるメディアの人たちが発信する「石丸さん、あなたも政治屋になりたいのじゃないのですか」に類する質問には、石丸氏は唖然として答えられないだろう。石丸氏が今度の都知事選に名乗りを上げたのは、政治家がいない。自分がやらねば、という思いだったと私は想像するから。政治家と政治屋の違いを理解しないで、政治を評論するメディアのピエロ達が、まさに政治屋さんなのだから。
ちなみに石丸氏が武器としたSNSで、政治家と政治屋の違いを検索すると、多くの検索結果が見つかった。SNSでは今やその違いは常識になっている。検索結果の最上部に、政治家は政治哲学を持っている人、政治屋は政治哲学を持っていない人、と表示された。この定義を見ても東京に蔓延る政治家達も、政治も含めて評論する評論家達も、それをマスメディアで報道する記者達も、皆政治屋さんだと言うことになる。
そう、東京メディアに出てくる人たちは、皆政治屋さんであるのか。それで稼いで生業とする。主業としているのか、それとも副業としているのかを問わず。恐らく副業としていることを自慢しているのだろう。京大経済学部を出て経済(経世済民)を知る政治家を目指す可能性を持った石丸氏を、自分を超えて日本の停滞を救ってくれる人かも知れないと、期待し温かく見守る気持ちにならないのだろうか? そうなれば日本も希望を持てるかも知れないのだが。