学歴詐称疑惑の意味ー裸の王様・東京

 現都知事の学歴詐称問題がまた浮上してきた。仮に学歴詐称が本当だったとすれば、何と長い間人々が騙されていたことか。そんなことは信じられないしありえないと、東京都民は思っていると思う。しかし旧側近の話は無視できそうもない。結局東京という地方のトップの学歴詐称問題を今、多くの都民が無視したいと思いながら判断に迷って居るだろう。そして今また行われる都知事選を前に、東京都に一極集中する大手メディアは黙っている。
 衆院三補選で、選挙妨害か・選挙結果誘導目的か・あるいは売名目的か、どちらとも解らぬ事態が首都東京で発生し、警察も選挙中には介入できぬと判断したと、東京メディアが報じている。そのためもあってか、学歴詐称が疑われる現都知事が押す候補者が、信じられないほど票を集めず、惨めな結果に陥ったと、東京からの情報は伝えている。そんなことで、首都の選挙が影響されるの? でも首都東京での選挙に、正常な民主主義の選挙では信じられない異常があったのは確かである。
 しかしそれで驚いちゃいけない。前回の都知事選でも民主的な選挙では考えられない介入があった。それも外国からの。ところがそれを東京のメディアが、あろうことか無視したのである。いやそれ以上に加担した。コロナ渦の中で。
 独立した国の選挙では、外部からの介入を許してはならない。これは近代民主主義の基本である。しかし前回の都知事選には、エジプト大使館から、つまりエジプト政府からの介入があった。その介入には都知事自身は関与していないと主張している。つまりその介入は外国からの意思によるものである。他国からの関与であると都知事自身が認めていることになる。この異常さを東京の善意ある人々は理解できないのだろうか? かつて読売巨人軍は不滅です、と言った東京の英雄がいたが、東京は不滅だと信じて、そういうことは些細なことだと、スルーするのだろうか?
 学歴詐称問題の、真の問題点とその責任はどこにあるのか?
 都知事の学歴詐称疑惑は何を意味するのか考えてみたい。学歴詐称疑惑は、問題の性質上、独立国エジプトと独立国日本との関係も絡んで、永遠に皆の腑に落ちる形では解決されない疑惑かも知れない。都知事本人の「学歴詐称」の真偽だけでその問題を考えると、大切な観点を見過ごすことになるのではないか。この事件は現代日本の象徴的な問題である可能性もあるのではないか。

常識ではなく良識で考えよう

 現都知事に対して常識で判断すれば間違えるのではないか? そう思うほど、現都知事小池百合子氏は現代日本人の常識を超えた人物ではある。一方で例えば日本の首都圏と対立軸にある地方の関西の常識で見れば良くわかるし、何で小娘がここまで来たのという気がする人物ではないだろうかとも思う。
 真っ正直を建前として重んじる東京と、日本でのそれ以外の「地方」とは全く違うような気がする。東京ではない地方では言うのじゃないか。「だまされるほうがアホナんや。でもその反動は騙す自分に返ってくるで。」そのように東京に疎外された地方は思っている。
 長い歴史でだます人物が多数存在し、なおかつ騙しながらも生き延びた人物に対する経験がある東京以外の地方、権力を持ち騙す人物を仰ぎ見追従するか、それをしたくなければ批判することしか知らない歴史の浅い東京ではなく、複雑に騙しまた騙された歴史ある地方ではそう思うだろう。
 何が言いたいんや。そう思われる人もおられるでしょう。スンマヘン。もうちょい我慢して聞いてモラエヘンヤロカ。
 ちょっと「哲学的?」に話を始めてごめんなさい。近代の終焉が間近に迫る現代で、近代を思想的に切り開いたデカルトをちょっと意識しました。デカルトでごまかしているのではなく、思考の原点を探ろうとしているのです。それも多くの人から納得を得るかたちで。何故ならここで書こうとすることは、多くの人が考えたくないことでしょうから。いや私の主張は多くの人が考えたくないことばかりですがね。
 手元にある日本語訳から引用します。近代哲学の祖と言われるデカルトについては、多くの人が高校で名前だけでも習ったでしょう。デカルトの主著方法序説は「良識はこの世で最も公平に配分されているものである」で始まっています。
 現代に続く近代の思考を始めた人デカルトによれば、良識は万人に公平に配分されているという。何のこっちゃと思うかも知れない。でもこれは「自分で考えること」に対する積極的な「信仰告白」と考えるべきと思う。近代はキリスト教の信仰告白を土台とする。人々が自分で考えることを前提として近代が始まった。自分で考えることは、人類すべてに可能性として与えられている。そう考えて「良識」がすべての人に平等に与えられているとデカルトは方法叙説の最初の文章を書いたのだ。
 一方常識は地方や時代で変化する。これは地方から東京に出たり、東京から地方へ「出張」ではない旅に出たりすれば実感する人も多いだろう。だから常識をあえて疑おう。そして努めて「良識」で考えてみよう。デカルトは、すべてのことを、つまり常識を含めてすべての知識を、疑うことから彼の思考を始めたのだから。
 良識は公平に配分されていると言うからには、良識ある各個人が専門家の意見にそのまま従うことはあり得ないと言っているに等しい。。

そもそも大学卒業時に成績第何位というだろうか

 話を戻します。現都知事の学歴詐称の問題でした。
 現都知事はカイロ大学を「首席」で卒業したと主張して、東京に集中する日本のマスコミの一部から、華やかにデビューを果たしました。
 現代日本では大学卒が非常に多い。ひょっとして世界一多いのではないか? その人達に問いかけてみよう。
 あなたが大学を卒業した時、何番で卒業しましたか? 主席は誰でしたか?
 え、え、・・・そんなこと意味ないじゃん・・
 そう、それこそ良識ではないでしょうか? 日本の大学を出た人なら成績順位を気にしない。誰が一番なのかも気にしない。それが民主主義国日本において、公平に配分されている「良識」です。
 大学生は与えられた期間に、個人で科目を選んで単位を取りそれが総合されて卒業する。入試と違って皆が全く同じ問題を解くわけではない。大学に通った経験がある人が共有するであろう当たり前のことである。多くの科目が選択である。たとえこの中から選べという科目群があったにしても。
 大学教員にとって卒業のための全員が受ける試験を作るようなことをするととんでもない労力になる。そんんなことをすれば、自由な発想の学問はできない。だが一方同じ問題で評価されない限り、順位をつけるのは難しい。ほとんど自明のことである。
 え、そうなのって考えるとしたらあなたは、順番をどのように付けますか? まさか自分の判断で順番を決めると考えてはいないでしょうね。大学の教員全部で順番を決めるのだと素直に考えているあなた。もう少し自分で考えましょうよ。400年前デカルトが「良識は万人に平等に与えられている」と主張しているのですから。それが近代選挙の基となる考えなのですから。良識は万人に平等に与えられていると考えなければ、一票の重みをすべての人が持つ現代日本の選挙制度の基盤は崩れますから。
 事実私が半世紀前学んだ大学で、私が卒業した時に順位はつけられていなかった。主席も存在しなかった。皆が必要な単位を取って、ただ卒業しただけである。また私が働いていた大学でも、順位をつけて大学生を送り出してはいなかった。私も私の同僚もそういうことには興味を持っていなかった。教師が学生にベリーグッドの成績だと教えることもなかったと思うし、担当の教授がベリーグッドと教えるのは、越権行為だと大学教員の多くが思っていると思う。
 学問の自由を基にして、多様な意見を当然持つ教授の集合体である大学での教育では、個々の教員は自分の講義にはひたすら責任を持つが、全体の成績に対して責任を持つことは難しいと当然考える。教授は研究の責任があるのだ。教育で細かいことに気を取られては研究はできない。軽々しくベリーグッドな成績だと、個別学生に告げる余裕などない。特に後に述べるようにundergraduateの学生に成績が良いというのは、研究を主たる目的とする大学教授からはおよそありえない。
 視点を変えてみよう。誰でも見ることが出来るWikipediaで、カイロ大学を調べてみる。カイロ大学は学生数20万人であるという。中東でも恐らく最大規模の大学だろう。もちろんすべての学部および大学院を含めての数であるはずだが、一つの学科で見ても、相当数の学生数だろう。そんな大勢の中で、順番を気にできるだろうか? またカイロ大学は自由な学風だという。それで権威主義的な「順番」を気にするとは、首席毛沢東・首席習近平じゃあるまいし、基本から考えて自己矛盾であるように思う。自由には個人の順番などはないのは明らかである。そして学問は自由を基盤とする。少なくとも順位を気にはしない「ベリーグッド」を、「首席」と軽く置き換えること自体、現在21世紀の新たな問題になっている権威主義と民主主義の違いを全く理解しない人物の発言ではないだろうか。国際的な政治家として失格というより落第である。
 現都知事は軽い気持ちで「首席」で卒業したと書いたと、結果的に自分で告白している。「良い成績」と「主席」では訴える力が違う。特に「権威」に弱い日本社会では。現時点での現都知事の主張では成績が良かった(ベリーグッド)といわれただけと言い直している。しかしそれも怪しい。ベリーグッドは大学教授がおよそ言いそうにない言葉である。そう考えると単純に「卒業」も怪しいのじゃないかと思わざるを得ない。
 「首席で卒業」なんてハッタリちゃうか? 関西やったら、そう疑う人物が必ず出てきまっせ。何でみんなそれ信じるの? それが不思議。そういえば、現都知事は関西出身ながらも、関西ではデビューせず、東京のメディアでデビューし、東京の選挙区で国会議員になり、東京の都知事選挙に出た。半世紀前流行った藤圭子の歌の文句を借りれば、「ここは東京、嘘の町」やから、カイロ時代思いついた嘘で、階段を駆け上り続けたんちゃうか? 関西の毒舌では、当然それくらい当たり前に出てきまっせ。それに勝てる玉とは百合子はん、アンタとても思えへんな。だから東京に行ったんやろうか。

卒業の証明は何をもって行われるか?

 現都知事は卒業証書もあるし、大学が卒業証明もしているから、事実として卒業していると主張している。それ以上言うことがない(言えない)と言っている。
 ホンマアホかいな。それでも関西人か? フェイクを発する人たちは、ウソと言いながら発する人はいない。事実だと当然だが主張する。プーチンを見てみぃ。ロシアから離れた立場から見てみれば、あの空々しい虚言を。
 卒業証書は偽造できる可能性があるし、大学の証明っていつどこで誰が行ったの?
 当然ながら疑惑を訴えている人達は、それを「証明」とはみなせないと主張している。ここに問題の鍵がある。日本の常識で考えてはいけない。デカルトが保証し万人に配分され、したがって世界に通用するはずの良識で考えよう。つまり誰でもわかる基本から考えるのだ。
 まず第一に指摘したいのは、世界的に見て大学の卒業は、現代日本の常識で考えるほど重く見られてはいないことだ。
 例えばアメリカでは、「大学生」は「アンダーグラデュエイト・ステューデント」undergraduate studentと呼ばれ、graduatete student(大学院生)とは、はっきり区別される。graduate studentになるためには、大学をgraduate(卒業)しなければならない。したがって大学卒業証明は、主として大学院生になるために必要なものである。graduate studentとか、undergraduate studentとかは、今東京メディアで、大手を振ってまかり通っている本当のgraduate達はみんな知っているはずだ。アメリカ人に聞いても、graduateしなくとも一年規模でアメリカの大学にいたことがある人に聞いても、当然知っている。
 アメリカでは博士、あるいは少なくとも修士でなければ、高等教育で専門を習得したとは考えられない。またドイツの同僚に昔聞いた時には、ドイツでも修士に相当する学位を持たなければ、その専攻分野の知識を習得したとは見られないということだった。単なる大学の学部卒で、専門を身に着けたと勘違いするのは、日本の特殊事情である。世界の「良識」ではない。
 世界中で大学の事情は異なっている。日本の常識をもってしては、判断を誤ることになる。では大学卒業は何をもって証明するのだろう。

卒業者名簿が大学に残る(日本での通常の例)は常識なのか?

 日本の大学では通常大学に卒業者の名簿が残っており、卒業を証明したければ、大学に申請して卒業証明書をもらうことができる。
 これが日本人の常識となって、大学が半世紀後にも卒業を証明することができると、日本では広く考えられている。事実現都知事は、2020年の都知事選において発せられた、大使館を通じてのメッセージを持って、大学が卒業を証明したと主張しているし、それが日本では受け入れられている。誰もそこに問題があるとは思っていない。
 しかしそれは必ずしも正しいとは限らない。大学が卒業証書を卒業の時に渡し、記録を残さない可能性も原理的にある。大学卒業はそれ自体それほど重要視されず、ほとんどが大学院に進学するためにあるのだという立場に立てば、この考え方もありうる。卒業資格を持ってなり得る大学院生(graduate student)であること自体が、卒業の証明になるからだ。そしてgraduate studentとして学位ー修士あるいはさらには博士ーを取れば、それは日本でのいわゆる大学卒業証明になるのだから。
 そう考えれば、世界の一部の地方で大学卒業証明書の偽造が、後を絶たない可能性はあると思えるだろう。大学の卒業証明書は、アメリカでgraduate studentになるために必要とされるものであり、最終学歴証明書ではないのだ。まして言わんや、ある国の地方都市の首長になるための証明書ではないのである。そう考えれば卒業証明書を偽造することは、現代日本人の予想以上に、気軽にまた簡単に行われているかも知れないではないか。騙される方が悪いんやと駆け出しの小娘または小僧が考えて。まさに詐欺である。
 一方記録が残ってなければ、20万人もいた半世紀前の学生の卒業を、学長が証明できるはずはないことは、それこそ万人に解るだろう。
 私は通常大学も記録を残すだろうとは思うが、20万人も学生がいたなら、それを記録しない学部も出てくるのもありうるだろうとも思う。日本最大規模の大学である日本大学さえも、学生数は10万人以下である。それでも失礼ながら時々不祥事が発生する。カイロ大学は中東を代表する大学として非常に国際的だという。国際的で多様な留学生を擁し、これだけの人数の記録を残すことは容易ではあるまい。また自由を重んじながら詐称など不正に対する万全な対策を行なうのは難しく、学歴詐称や論文捏造などを効果的に避けることができるとはとても信じられない。
 事実私はあるエジプト人と、そして彼が行った私から見ると明らかな論文捏造の件を知っている。私もその捏造による客観的な被害者であるからその事実を知っているのだが、誰もそれによって実質的な被害を被っていないので、エジプト人である彼はそのような捏造を繰り返して、少なくとも一時エジプトの大学教授になって日本で開かれた国際会議にも来た。それもカイロ大学教授だったと記憶する。日本人研究者の誰もが専門分野が違うなどして、彼を知っていなかったから誰も注目しなかったが。でも私は彼を確認し挨拶もした。以前から狭いながらも国際的な専門分野の国際会議で会ったこともある人物である。だが彼の発表を聞いたことはない。誰も彼の話など聞こうとしなかった。
 見かけは英国流の紳士的な物腰だった。彼はその後もっと階段を上がったかも知れない。少なくとも外見は落ち着いた紳士然とした人物だったから。詐称とみられる事態も、それ以上の目的があったかも知れない。
 それを証明しろと言われても難しいが、証明する術はある。すでに出版された国際的な学術出版書を調べると、証拠は客観的に残っている。私の論文と彼の論文が、別のジャーナルにではあるが、タイトルを見る人が見れば同じ計算をした結果として印刷され残っている。彼の論文の方が先に出ているが速報だ。実際に計算をしたのなら詳細を記述した本論文が出るはずであるが、それは半世紀近く経過した現在も出ていない。また今それを出しても出版はされない。何故なら私の計算が広く世界でも受け入れられ、今時そんな計算をする人もおるまい。莫大な労力を使うのだから。彼は単純に実験結果を見て、計算の結果同じになったと論文を捏造したのは私から見れば明らかだった。実験を理論が説明するべきことは、現代物理学では常識になっている。実験を見て、それを説明できたと詳細を発表することなく主張する論文は、捏造以外にはあり得ないと日本の研究者ならば思うだろう。
 一方二~三十年前には、彼の行なう論文捏造は私が所属していた国際的研究者仲間では有名だった。ドイツのある研究集団の人が笑いながら言ったものだ。彼の名前をもじって「”Don’t O-ize.”」というのが、データを勝手に変えてしまうなという常套句になってるよと。国際的には誰も彼を非難していないが、一方多数ある彼の論文が国際的に認められたことはない。
 20万人ーそれほど多くの大学生に対して記録管理をするのは難しい。卒業時に当人に卒業証明として卒業証書を発行すれば、あとは当人の問題であると考えても不思議ではない。あるいは全く人力の無駄と考えれば、初めから記録を取っていない可能性が大いにある。ましてや半世紀前、デジタル技術が未発達の時代には。
 念のため付け加えるが、以上は現都知事が大学をほんとに卒業したかを判定したわけではない。単に疑念があるし、疑ってみることは客観的に見て必要だと指摘しただけである。その上で自分の考えを一票として良識を持った市民は、選挙では決定すべきなのである。良識は万人に与えられているというのが、近代民主主義の根底にあるのだから。

大使館を通じての学長声明が意味するもの

 目前にある問題に対する答えを出すよりも、見通しよく問いを発することのほうが大切なことがよくある。現都知事が学歴を詐称したのかそれとも本当に卒業したのか? 果たしてそれが真の問題なのだろうか?
 その答えを探す前に、現在の状況が何を意味するのかを考えてみよう。
 現都知事は大使館を通じて発せられた学長声明をもって、大学が卒業を証明したものだと言っている。大使館が学長声明を発信するとは、そしてそれを選挙戦中に発信するとはどういうことなのだろうか? 声明文の真偽を考える前にそれを考えてみよう。四年前の選挙時に「大使館からの学長声明」が出たことは、現都知事も認め、多くのマスコミ報道も伝えていることだから。それはまさに基本的事実として、良識による思考材料に用いることができる。

大使館がエジプトでは大学の自治はないと認めたことになる

 大学は学問の府である。学問の自由を守るためには、政治から独立していなければならない。これはすべての日本の大学が建前として主張していることである。そしてそれが現代グローバル社会の常識でもある。
 またメディアもそれを当然としている。
 そのうえで学長が声明を出すのに、大使館を通じて出すだろうかと考えてみる。 在日エジプト大使館は日本に存在するエジプト政府である。政府からの独立を存在基盤とする大学が、大使館を通じて声明を出すことは通常あり得ない。正常な国交がないとき、つまり声明を出す方法がないとき、非常手段として使うことはありうる。しかし日本とエジプトでは、きちんとした方法はいくらでもある。何故都民はこれを不思議と思わないのか? 何故都民の意見を喚起するメディアが、それを問題にしないのか?
 平和時の日本エジプトの関係のもとにエジプト大使館が、つまりエジプト政府が、エジプトの大学からの致命的な声明を発表するなら、大使館がエジプトの大学の自治を否定したことになる。大使館はそれを意識しなかったかもしれないが、しかし政治から独立した「学」の立場から考えると、エジプト政府が大学の自治を犯したことになる。

エジプトが日本の選挙に介入したことになる

 百歩譲ってカイロ大学が自治を守る立場を保持しながら、何らかの理由で大使館を通じることが価値があると判断したとしよう。でも大学の自治と民主主義を守るという視点を持つならば、選挙中のタイミングは外すに違いない。
 一方都知事は自分で声明文に関与していないというが、選挙中の声明文は明らかに政治的影響を狙っている。そしてそれが選挙に無視できない影響を与えた結果として現都知事がいる。仮に自身が声明に関与していないとの現都知事の主張が正しいとしよう。エジプト本国のあるいは大使館独自の判断で声明が察せられたことになる。本人が要請しないのに大使館で声明が選挙中に発せられたら、エジプト政府の明らかな政治介入であり、外国に選挙結果が影響されたことを自ら認めると、個人である都知事本人が発信するに等しい。公的な都が発信できることではない。それをやったら、都は国益を無視していることになる。都民ファーストの会の会員の皆さん、よく理解していただきたい。都民の皆さん、良く理解していただきたい。
 ロシアがアメリカの大統領選挙に介入したという疑惑は、日本ではかなり言い古された疑惑である。主権ある国家を民主的に維持しようと思えば、外からの選挙介入を絶対に許してはならない。多くの東京都民はそれくらい知っているだろう。すべての東京メディアがそう主張するだろうと思われるように。
 カイロ大学の学長声明は、前回の都知事選挙の真っ最中にエジプト大使館で発表されたという。これはあからさまな選挙介入である。 何故東京に集中するメディアが、そのことを言い出さないのか? そしてこの声明が出たとたん、疑惑報道は一切消えてなくなり、また都民の意識も変わり、現都知事が圧倒的な支持で再選されたという。日本人の意識を変えるのはなんと簡単なのか、日本に政治的に介入するのは、なんと簡単なのかと、世界は日本を軽視するだろう。つまり日本の首都東京における、民主主義の浅薄さを世界が笑うだろう。東京都民はそれを世界にさらけ出してしまったのである。そしてそれを先導した東京に集中するビッグメディアたちも、その底の浅さを世界にさらけ出してしまった。例え現都知事が実際にカイロ大学を卒業しているとしても、メディアは疑惑の報道をエジプト大使館の声明によって選挙中に収めるべきではなかった。カイロ大学の学長の声明が、何故選挙のさなかに発せられたのか、そういう疑問を持つスタッフはいなかったのだろうか? 東京メディアに蔓延る「評論家」達に、その疑念を発する人物はいなかったのだろうか? 
 また東京メディアの更なる失策は、現都知事の平時の任期中に真実を追求することを怠り、また選挙前になるまで疑惑に蓋をしたままであったことである。
 その場限りの報道をすれば、それで大きな顔をできる。何と浅薄な東京メディア達よ。圭子タンは、ほんま東京を言い当てましたな。「ここはトウキョウ・ウソの町」でんな。

現都知事は退陣すべきである、そして都民は?

 私は現都知事がカイロ大学を卒業したというのは嘘であると感じている。若いころ世界の大学を駆け回った経験からそう考える。もちろんそれは私の判断であり、現都知事の学歴詐称を証明するものではない。しかしそんなことはどうでもいい。仮に真実であったとしても、問題はそこにあるのではない。
 デビュー時代から「トップの成績で」卒業という「嘘」に人々が踊らされることを経験した、狡知の限りを尽くす現都知事の不正を正そうとする人々の努力を私は尊敬するものであり、それらの努力を意味がないと言っているのではないことはお断りして、次のもっと根源的と思われる問題点を指摘したい。
 政治家には国益を守る義務がある。「国」の主体は国民である。国はその国の国民の総体である。様々な危機ー自然的なものであれ人為的なものであれーの影響をできるだけ抑え、国民が幸せに暮らし、それを限りある地球全体の未来につなぐための、地球上の一つの地方が国であると、現代の世界では考えるできであると私は思う。その認識においてはすべての国が大切であり、協調する必要があることが出てくる。しかし今現在プーチンのロシアが示しているように、特定の国ー例えばウクライナーをいわれもなく攻撃する国もありうる。その意味において、地域の民主主義には、他国の介入を許さない断固とした姿勢が必要となる。それを実行しているのがゼレンスキー大統領と彼を代表に選んだウクライナの国民であり、それゆえ彼と彼の国は、日本でも圧倒的支持を受け、そして尊敬されている。たとえ友好国であるとしても、文化も歴史も異なるエジプトの干渉を許してしまったのは明らかな政治的間違いである。都知事は自己の選挙中に外国政府に決定的な介入を許したことについて、恥じなければならない。
 仮に都知事はその主張通り大使館から出された声明について一切関与していないとしよう。本人の関与とは関わりなく、エジプト大使館がつまりエジプト政府が、選挙中に、選挙に巨大な影響を与えたメッセージを発したのであると、皮肉なことに本人の当選が結果的に認めたことになる。日本の政治家として当然要求される二つの思考力、すなわち政治家として要求される政治的思考力と、日本人として要求される日本の価値を正しく主張しそして貶めないとの思考力があれば、この時点で立候補辞退を宣言すべきだった。 それをしなかったのは、上記二つのうち少なくともどちらかを現都知事が持っていないか、決断力を持っていないかになる。そうでなければそれらの力を発揮できないほど、本人がうろたえていたことになる。
 そしてそれ以上に、東京に集る大手メディアは反省する義務がある。選挙中に報道の姿勢を、他国の政府の介入によって変えてしまった片棒を担いだ責任がある。その結果として最終的に、選挙を通して外国の介入を許してしまった民主主義国家日本の首都東京都民すべてが、自からの至らなさを何ゆえであるかを反省することによって、日本を未来へと向ける義務がある。何故なら、東京一極集中は、この記事で示したように民主的に脆弱であることを、他国の介入の結果現都知事を「民主的」に選出することによって自ら証明し、また他のページで示したように日本の停滞を招いているのだから。
 今の東京が日本の末永~い発展の、邪魔になっとるんどっせ。

カイロ大学は半世紀も前の記録を見て声明を出しているだろうか?

 カイロ大学は、四年前の都知事選挙中にも拘わらず、現都知事が卒業したという声明を出したことになっている。大使館を通じて出したという状態は、本来おかしいことは、上記論述で示したとおりである。
 現都知事は選挙中にも拘わらず出された声明を基に、大学が卒業を証明していると主張しているわけだが、それでは大学は何を基に声明を出したのかを考える必要がある。
 大使館は外国政府の出先機関だから、大使館声明をそのまま信じることはできないことは、在日ロシア大使館声明をもって真実と受けとめることは、ほとんどの日本人はありえないと思うだろうことでも明らかである。友好的である他国大使館は、一方ではスパイ活動をも行うかもしれないと考えなければならないことは、それこそ近代以降の常識である。
 数十年も以前の卒業生を、20万人もの学生を抱える大学関係者が覚えていることは、ほとんどあり得ないし、また記憶によって卒業を証明できないことは、自明のことであろう。大学は何をもって卒業を証明するのか? 数十年経った後、大学学長が大使館を通じて卒業を証明する、その異常性をまず認識しなければならない。
 カイロ大学の当時から残る「客観的」な公式記録に、日本を国籍とする「Koike Yuriko」なる名が存在し、その人物の更なる記録とともに、その人物が他の学生と同様に、卒業したことを現都知事が証明できない限り、「何者か」が「カイロ大学」の名のもとに、卒業を勝手に「証明」している可能性があることを、次回の選挙では、東京都民はしっかりと認識しなくてはならない。「カイロ大学」が何らかの理由で、「結果的に嘘の」卒業を認めることも様々な理由を持ってありうるのだ。
 「カイロ大学学長」は「東京大学学長」や「日本大学学長」と、立場が厳密に同じであるはずはない。国によって大学の制度も異なる。カイロ大学は卒業の記録を持っていない可能性もあることは、すでに述べたとおりだし、他国の有力政治家が「カイロ大卒」と自分で主張するなら、それだけで価値を認めても、それは非難できず、その自称を真偽を問わず受け入れているだけかもしれないのだから。もちろん日本の大学ではこういうことはしないと思う。しかしそれは価値観の違いであり、非難は出来ない。
 あるいは卒業生であると主張する人物が困ったときには、手を差し伸べなくてはならないと思っているだけかも知れないし、それは「学の独立」より上の「人としての倫理」から出る結論かも知れないのだから。たとえそれが「近代思想としての倫理」に反するとしても。文化の違いを認めると言うことは、その位の認識の幅を持つべきであるということである。しかしその可能性を認めるとすれば、政治的チャンスあるいは危機に出された学長声明を単純に真実と受け止めることは、なんというアホさ加減ということに他ならぬ。公式に大学が政治的な振る舞いを、その大学の根源的利益の場合以外には控えることが、学の独立を保証するのだから。
 東京に主要メディアが集中しているがゆえに偏った報道しかできず、カイロ大学を首席で卒業したと自称する若い活動的な女性を持ち上げたのも東京メディアなら、学歴詐称の疑惑が起こった時、あってはならないはずの外国大使館から出たメッセージをそのまま信頼して、その異常さに誰も声を上げることができなかったのも、東京メディアの偏った報道が引き起こしたことである。ホンマ「ここはトウキョウ・ウソの町」やな。
 その若い女性は関西出身であるにも関わらず、東京でマスメディアデビューし、「東京」の選挙区で国会議員として選出され、そして「東京」で都知事として選出された。高度成長期に流行った演歌の「ここは東京嘘の町」の句を思い出すのは私だけだろうか。そうだとすれば、私は長生きをしすぎたことになる。
 現都知事が関西で同じような活動をここまで続ければ、それホンマかいなと、疑う人がたくさん現れ、現都知事もその洗礼を受けて、もっとしっかりした基礎的判断力を持つ政治家になっていた可能性がある。それは長く見て、日本の国益にかなっていたはずだ。あれだけ発信力を持っている人物なのだから。
 ユリコハン。何で嘘の町・東京に頼ったんや。そのころ圧倒的に力を持っているかに見えた東京に、エジプト大学「首席卒業」と自分でも認めている嘘を通用させたいためにか? もういい加減おやめなはれ。健康に悪いがな。
 東京一極集中の脆弱さは東京を離れてみれば、いやというほど明らかに見えてきます。

東京一極集中が日本の停滞を招いている理由

 このブログでは、以前から東京一極集中を問題にしてきました。東京一極集中の結果、大手メディアは東京に集中しています。日本人の意見に大きく影響を与える報道のほとんどすべてが、東京から発信されていますが、都民が民主的に選んだ「女帝」のそもそものスタートが、大学を卒業できなかった若い女性の虚偽を東京メディアが信じて大きく取り上げたことから始まった可能性が、無視できないほど大きくあるという事実は、東京の民主主義の脆弱さを物語っています。
 疑惑の真相に迫る報道も、メディアの多くは黙殺してきました。批判精神がその根幹にあるべき、近代メディアがその役目を担えなかったのです。例えば学長声明を出した人物が、どのような人物か、学者なのか政治家なのか、学者ならどのような分野を専攻する学者なのか、それすら解りません。これで大学が発する声明を、だまって受け入れることが出来るでしょうか? え、大学の学長が政治家だってことあり得ないって? それって早稲田大学や慶応大学は大学じゃないかもって言ってることになりません?
 そういえば、慶応大学の現学長さんの発言は、やっぱり慶応大学は大学じゃないんじゃないかと、受け取られても仕方ないですね。国立大学の学費を上げろなんて。先に慶応大学が学費値上げをしてそれから言ってもらいたいですね。え、私立大学は国立大学より学費が高いから、不平等だから値上げしろって? 不平等だと思うなら、慶応大学を地方都市に移転して、世界に名だたる大学都市を造るくらいのことやらなくちゃ。大学が日本ほど東京一極集中しているのは、世界的に見て他にはないない現象で、これだけでも東京と地方の圧倒的不平等を生んでいるのですから。
 しかしこの発言を見ても、東京の人たちは東京目線でしか、ものを考えられないのだと、つくづく思います。都に集中する私大群は、それだけでも都民ファーストを実行しています。都民は親元を離れず子供を大学に送り込めるのですから。都民ファーストの会が政治的に存在している事実は、その特権の上で成り立っている発想から生まれているだけなのですから。ちなみに欧米での有名大学は、人口10~20万人くらいの小規模都市に存在します。前途有望な学生は、親元を全員が離れてそれらの町に行くのです。その都市は大学で持っています。一個の町を支える、そのくらいの気概がないと、気概ある学生は育てられません。
 つい最近起こった大きな経済ニュースでは、GDPで日本がドイツに追い越されたことがあります。東京のメディアはどこもその理由を考えようとはしませんでしたし、メディアに蔓延る評論家、経済専門家も単にあっさりとスルーしました。日本とドイツの違いは、決定的にはどこにあるのでしょう。
 決定的違いは、ドイツは日本と違って、地方分散型国家であり、すべての地方の人々が活躍しやすい国なのです。ドイツの文化は地方によって違います。そのすべての文化が、対等にドイツ国内では取り扱われ、それが影響し合って永続的なドイツの力を発揮する土台になっているのはないかと思います。ドイツから追い抜かれた事実を前に、この違いを考察する責任を、日本の首都東京に集中するメディアも、その「東京という一地方」に住む住民も、無視することはできないでしょう。